生い立ち

四国の片田舎に生まれた貧しいサラリーマンの息子の半生です。なにもなかったようで、思い返せばいろいろとありました。それぞれの局面で、あれもアーだった、それもソーだったと、湧き出るように記述したものです。

生い立ち

誰にでも絶対知られたくないことがあるだろう。すべてを洗いざらいとなると少々問題が起きる。長い一生には、恥ずかしいことや、とんでもないことをしでかしてしまったことなどもあるだろうが、私自身のことはすべてオープンにしたい。なかには恨みつらみもあるかもしれないが、私の記述に間違いや不都合があれば御指摘を請う。私と係わった人がやめて欲しいということまであえて公開しようとは思わないからだ。
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目次
 1948年 子供の頃
 1965年 高校入学
 1968年 大学入学

1948年 子供の頃

香川県の東端に位置する大川郡白鳥村に生まれる。当時はまだ日本中が貧しかったが、とりわけ我が家は貧しく高校卒業までは、屋根裏がススで真っ黒になった藁葺きの、村で最も小さい家に住んでいた。とても狭いので、中学生になってから高校卒業までは私の個室用に隣の農家から牛小屋兼用の納屋に一部屋借り牛と同居していた。小学校3年まではガスも水道もなく、狭い土間で煙にむせびながらかまどの焚きつけを手伝わされつつ、隣家の井戸からもらい水をブリキのバケツで運ばされていた。勿論下水道もなく、下水は庭に穴を掘って流し込んでいた。風向きによっては、汲み取りトイレの匂いが家中に漂っていた。風呂もなく、お隣の風呂を借りたり、20分ほど歩いて町の銭湯に通っていた。こう書いてみると如何に隣の伊藤さんにお世話になっていたのか恥ずかしいほどである。

小学校3年生くらいまでは白米と麦飯が混ざっており、幼い頃ほど麦の比率が多く100%のこともよくあった。白米といっても、胚芽の栄養を求めて五分づきや七分づきだったことから薄黄色のヌカくさいものだった。それでも私には大変おいしいものだった。その後、経済事情の好転により、米はより白くなっていくとともに、麦飯はもっぱら愛犬の主食となっていった。親父によると、食料事情は戦時中よりも戦後数年がさらに厳しかったそうだ。経済原論などどこふく風、想像を絶するインフレだったそうで、一ヶ月分の給与で米一升しか買えないこともあったとお袋がぼやいていた。私の誕生時母乳が出なく、当時は買おうにも店に粉ミルクは売ってなく、米のとぎ汁で育てたそうだ。お袋が試しに母乳の豊富な近所のおばさんの乳房を私に吸わせてみたところ、食いついて離さなかったとのこと。頼みの親父は本人の言い分によると虚弱体質ということで54で隠居を決め込み晴耕なく晴読雨読、パワーを温存しつつ84の長寿だった。柳に雪折れなしとはこのようなことを言うのだろう。

幼児期、小中学生の頃の思い出として自身の事よりも、友達、村や町の人々、周囲で起きた様々な出来事が走馬灯のように思い浮かぶことがあり、その都度酒を楽しみながら執筆している。仕事が落ち着き、タップリと暇ができたらその裏づけとして故郷の人々から当時の話を聞いてみたいと思っている。育った村は半農半漁、鰯のシーズンには村人が櫓漕ぎの船で地引網を入れ老若男女そして子供までもが一緒に皆で引き、取れた魚を分け合っていた。すこし奥地は野山に囲まれた小さい平野がある田園地帯、海と山に囲まれた絵に描いたような美しい村落で、保守的コミュニティであった。子供の頃の遊びは、小川で魚を獲ったり、海で魚を釣ったりだった。一方、隣接する小さい町は人口1万程度だったが映画館三軒、パチンコ屋二軒、本物のヤクザもいて活気に満ち溢れていた。町全体が戦後の復興に伴うスモールビジネスに湧いていて、賭場も開帳されていた。ある日突然一家が家財道具一切持って蒸発することもたまにあって、大人の間では「また夜逃げ」と噂が飛び交っていた。私は親の勤め等の事情により町の小学校に越境入学していたが、6年生の時仲の良い同級生の一家が夜逃げし、それ以来彼とは会ってない。もちろん私は子供だったので賭場を見たことはない。この町の雰囲気が、少々チャレンジングな私の性格形成に影響を与えたことは間違いない。

物心ついた頃、リアルタイム情報源としては真空管式ラジオしかなく、テレビとインターネットなど夢想だにできなかった。およそ総てが人力、田畑の耕作は牛が主動力源、馬はトラック代わりに使われていた。道路はもちろん舗装されてなく、牛馬の糞がそこここに落ちていた。公共交通は蒸気機関車とバスのみだったが、小学生の中頃に耕運機、トラック、ディーゼル機関車へと一気に機械化が進んだ。しかし、中学の頃まだ蒸気機関車が一部走っていたと思う。このように文明とは隔絶された田舎だったが、親父は多少なりとも教養や情報の大切さが分かっていたようで小学館の月刊誌を欠かさず買ってくれていた。しかし、いくら欲しがっても漫画は一度たりとも買ってくれなかった。この雑誌には毎号必ず、未来都市の鳥瞰図が折り込みで入っており、空には飛行機が舞い、地上には高層ビルの間を高速道路や新幹線、モノレールや運河もあって豪華客船が停泊し水中翼船が走っていた。いつも寝る前に布団の中でこの折込を見て想像をかきたてていたが、つい先ごろまで働いていた富士通コミュニケーションサービス株式会社が立地する天王洲周辺はそのときの鳥瞰図そのものだ。

小学2年の時、級友の崔が帰還船で北朝鮮に帰った。しばらくはクラスに葉書が来ていたが、直ぐに絶えた。葉書には、当時三種の神器と呼ばれ普及し始めたばかりの日本から持ち帰った電気釜や洗濯機を近所の人たちが大勢見物に来たとあった。北朝鮮は理想社会主義国家ということで、彼の帰国の挨拶は希望に満ち溢れていた。しかし、ハガキからは子供心にもきびしい現実が垣間見えた。御両親は廃品回収業をしていたが、帰国に際し総ての現金を物に変えたそうだ。彼は人一倍頑張り屋で勉強も運動も良くできたから先生にもかわいがられていた。昨今の状況を憂うとともに、元気に生存しておりまた会える日がくることを願わんばかりだ。すぐ近所には朝鮮人の2家族が二軒長屋に住んでいた。優しい兄妹だったマスちゃんとヨッコちゃんとはよく遊んだ。二人は、殆ど日本語が話せないお爺さんと三人で暮らしていた。その隣の家族には私より数歳年上の色白で大人しい兄弟がいた。村の子供達と群れ遊ぶことがなくいつも兄弟揃ってリンゴ箱の机に向かって勉強していた。2家族が朝鮮人だからといって周囲からのいじめや差別は私には感じられなかった。彼らが帰還船に乗ったかどうかは知らない。

小学生のころゲルマニュームラジオをいじったり、中学生の時にはUコンのベニア板製のエンジン飛行機を持っていたが、予算的な問題もあり、ラジコンには手が届かなかった。子供の頃から図画工作が大好きで、何度も入賞するなどこの方面ではある程度才能を発揮していたが、お勉強はもう一つだった。工作では木を切ったり削ったり、それに絵の具やペンキを塗ったりで、プラモデル出現の頃には私の興味は次のステップに移っていた。中学の時、ホンダがS500という二座席のオープンカーを発表した。抽選で1台当たるということから、宝クジは確率論的に絶対当たらないと理解していた私までもが応募葉書を出した。当時ホンダ本社にトラック1台分の葉書が運び込まれたことが話題になった。勿論スポーツカーは送られて来なかった。しかし、今の私の愛車はホンダフィットシャトルハイブリッドだ。

ある時、九十を超える小学校担任の六車先生とお話しする機会があり、「あのクラスには頭のいい生徒が3人いて、原田、陰山、そして鎌田だった」と仰った。しかし、成績が一番になったことは無かった。成績の良い生徒でなく、頭のいい生徒という表現に何か引っかかるものがある。当時、全国的に知能テストが流行っており、毎年様々な形式のテストをしていたが、知能テストで一番になったかどうかは分からない、というのも個人には指数を教えるのだが全体の順位は未発表だったから。但しお袋は、担任から私の知能指数が高いと聞いて悦に入っていた。5年生の時、全校生を対象に校内同時放送で記憶力テストというものが実施された。長文を聞き、直後に四択クイズの20の設問に答えるというものだったが、全問的中した。先生によると全問正解は全校で一人だったそうだ。そういう訳で、成績ではないが一番というのはこれだけ。中学の成績も、いつもクラスで2〜3番だった。運動では、中学二年の運動会1000m走で学年1位になり、三年生の時は二位だったが、動体視力が極端に悪かったうえに敏捷性、筋力共に低く、球技は全くダメだった。
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1965年 高校入学

地元三本松高校に入学、クラブ活動は科学部に入部し、無線班に所属した。無線班では、入部とほぼ同時期にアマチュア無線局(JA5YCC)が開局した。私も触発され1年生の時免許を取得し開局(JA5BTY)。6BM8というオーディオ用真空管2本と壊れたラジオの部品を使って出力1Wの送信機を造り、受信は家庭用ラジオの短波を使った7Mバンドのみであった。上級生の向井さん(JA5BGW)、山下さん(JA5BGE)からいろいろと教わる。同級生は猪熊(JA5BYE)、下級生では田中(JA5CIE)、安井(JA5CIH)と近所に住む立花(JA5CBU)、彼らとは今でも帰省すると毎回会っている。この無線班で完全に電気にハマった。クラブには生物班、化学班、天文班、写真班、考古学班などがあったが、無線班以外に実質的に活動していたのは生物班、化学班、天文班だけだった。どういう悩みがあったのか分からないが化学班の女子生徒が実験用薬品で服毒自殺したことは全員ショックだった。可哀想なことに簡単に死ねず、1週間苦しみぬいたそうだ。

この頃、エレキギターブームが到来、ご多分に漏れず私も手を出し、同級生で幼なじみの池脇が中心となって作った4人のバンドでリードギターを弾いていた。メンバーは、山本ベース、池田ドラムス、池脇サイドギターという全員保育園時代からの遊び仲間だった。山本と池田はブラスバンド部に所属していた。予算的な問題から壊れたラジオなどの部品を集めてアンプを作った。私の音楽体験は、小中学時代のプレスリー、高校でのベンチャーズとビートルズがすり込まれていて、今でも聞くのはそのころのものとシックスティーズだけ!最も好きなのは、プレスリーでは"Love Me Tender"ビートルズでは"All MyLoving"、60'sではナット・キング・コールの"Ramblin' Rose"。どちらかというと、ビートの利いたものよりもバラードが好きだ。この当時私は多少音楽の才能があるかもと思っていた。ところが、池脇のギターを聴いてちょっとした自信は見事に砕け散った。彼はお勉強では目立たなかったが、演奏や採譜する能力は抜群だったし、声もよく、音程はしっかりし、おまけにハンサムだった。

ギターに手を出したのは多少譜面が読めたから。小学校3年の時、お袋が汚い中古ピアノをどこからか調達してきた。それからバイエル抱えてピアノ教室通いが週末のお勤めになってしまった。先生は香川県でトップレベルという軒原女史、戦前の東京音楽学校ピアノ科の御出身だった。高校教師を定年退職した独身女性で、厳しく本格的な教授法には往生した。田舎ではピアノは良家のお嬢さんのお遊びと考えられていたこともあり、全く興味が湧かず面白くもなかった。汚い茅葺の掘立小屋からピアノが聞こえるという状況は、今考えるとお笑いだ。ピアノをやっていたころは絶対音感だったが、ギターをやるようになってからはきちんと調弦しなかったのでガタガタになった。高校の成績は理系進学クラスで中の上くらい。受験勉強は、気ばかりあせれど実効なく、3校受けたが滑り止めに滑り込みセーフ。諸般の事情から傘貼りだけは避けることが親父のたっての願いで、とにもかくにも受かったことで大変喜んでくれた。
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1968年 大学入学

青山学院大学電気電子工学科に入学、アマチュア無線クラブがあったので入部。しかし、局ライセンスが無かった!それで開局申請(JA1ZJH)からなんから自ら実施、自分の送受信機を学校に設置した。なんだかアマチュア無線で遊ぶために通学するような時が一時期あった。もともと頭の良いほうではないので、講義についていくのは大変だった。今でも、難解だった数学の試験の夢を見て夜中にハッと目が覚めることがある。高校の数学と大学のそれとのギャップは、驚きだった。線形代数の教科書の最初の文章は "mをnより成る元の集合と定義する" とあって、分からせようというような教科書でなかった。数学の先生は自分のポジションキープの為に、あのような分かりにくい教科書を使ってわざわざ分かりにくく講義していたのではないかと今でも思っている。線形代数が分かるようになったのは回路設計を始めた頃である。卒論はゼミの先輩からの引継ぎテーマ「8チャネルPCM装置の製作と性能評価」であった。アナログ技術とディジタル技術の集大成の装置をICを全く使わずディスクリートで作ったのだが、アマチュア無線技術の延長線上にあって楽しかったことを覚えている。学部の成績は終わってみれば上の下くらいだった。

大学生の時はちょうど70年安保を挟んで学生運動が最盛期だったが、幸か不幸か二流大学のそれも世田谷にあった理工学部は全く影響が無かった。そういうことから休講になったことは一度も無く、完全に平静が保たれていた。それでもあるとき、正門が机や椅子でバリケード封鎖され安保反対の立看も現れ1年程続いたと思うが、講義はいつもどおり平静に行われていた。ある日バリケードの前で級友の漆畑が安保反対と書いた安っぽい工事用ヘルメットをかぶって椅子に座っていた。何をしているのだと聞くと、他大学の本物の過激派が来ないように交替でバリケード番をやっているとのことだった。理工学部は学生や教職員全てを合わせても千人に満たないので、大学改革云々と言っている連中も皆顔見知りだったから、改心しない奴はゲバ棒で殴られるなどとは誰も思ってなかった。彼らは大学を封鎖したのでなくバリケードを作って守っていたのだ!どうりで、先生や職員の通行なども全く普通で皆ニコニコしていたわけだ。
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1971年

ゼミの木戸栄次教授(*)の勧めもあって修士課程に進む。修士論文のテーマは自分で考えた「ディジタル技術を使った周波数安定化の一考察」で、これもアマチュア無線の延長線上にあったが、自分なりの理屈を立て、それに基づいて回路設計し、評価した。当時ニキシー管という数字表示真空管を使って周波数を表示するアマチュア無線機器が市場に出始め、ディジタル技術もアマチュア無線の世界に入ってきつつあった。論文の評価を今振り返ると、もう少し数学的な解析や考察が必要だったかも知れない。そういうことで、大学ではアナログとディジタルの回路設計技術と理論がそれなりに身についたと思う。
*: 東大の銀時計組で、沖電気工業技術部長のときは学会に論文を出しまくって有名だったそうだ

富士通入社時、配属された衛星通信研究部の隣のディジタル研究部では、私が考案した周波数安定化回路と瓜二つのものを設計していたので驚いた。もっとも差分を検出してフィードバック制御するとなれば、誰が設計しても同じものになってしまうが!PCMに関して会社では400Mbps/6000chを研究開発中で、私が卒論で作成した装置の約100倍の能力だった。コンピュータは、当時の私立大学では珍しく理工学部にIBMの最新型メインフレーム"システム360"があり、日立の"HITAC-10"というミニコンピュータも二年生の時電気電子工学科に導入された。学生はこれらを自由に使えたが、私はコンピュータに全く興味が持てなかった。後にプログラミングの面白さに気づき後悔したのだが、典型的な食わず嫌いだった。

修士課程では語学試験という難関があり、なかなか通らないという評判で皆戦々恐々だったが、運良く1年目前期の最初の試験で通った。11人中、野瀬と私の2人がパス、木戸先生は、掲示板に張り出された私の名前を見て大変喜ばれ、むしろ驚かれていた。というのも、野瀬はクラブ活動ではESSに所属しクラスで総合トップの成績だったが、私は優秀というレベルではなかったから!先生は、成績の振るわないゼミ生の卒業を後押しするために、他の教授にかさ上げをお願いすることを厭わない性格だったので、始めて修士として採った出来の悪い私のことを大変気にかけておられたようだった。

卒業後かなり経ってから知ったのだが、木戸先生は明治の元勲木戸孝允の直系とのこと。私がお世話になった時点では既に好々爺であられたが、ごく稀に熱血漢が垣間見えることもあった。ゼミの飲み会などで酩酊されると、いつも、出征して亡くなった友人のことを話された。卒業してからも、たびたびお宅にお邪魔していたが、先生が召された数年後奥様もお亡くなりになった。先生はクリスチャンで洗礼を受けていた。奥様の兄上が富士通の清宮社長、先生とは旧制一高の寮から一緒で、兄貴と呼んでいたそうだ。『兄貴の部屋に行っても、いつもイネーンだよ。今でも思うけど、いったい何処へ行ってたんだろう?』と仰っていた。何度もお宅にお伺いしたことから、奥様からも色々と面白い話をお聞きした。その時点では清宮社長はお亡くなりになっていた。
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