"脱亜、尊敬から蔑視へ(明治)"を読んで

荻生徂徠、河村瑞賢、なんとなく覚えていた人名が出てきたり、思い出したりして。読書の時間を楽しめました。
●"脱亜、尊敬から蔑視へ(明治)"を読んで 2014/1/26

日経:日曜に考えるのカラムに近世になってから日本は中国を蔑視し、覇権主義を助長したことを記載しているが、当時それに異を唱える声もあったことが救われる。ところでなぜこの記事が私の目を引いたかだが、最初の段落に荻生徂徠が「物茂卿」と中国名を称していたとのこと。物知り博士だった荻生徂徠が考えた命名ジョークか?私の勝手な解釈で荻生徂徠の研究家には申し訳ない。

南原繁の一の弟子と言われた丸山真男が「自分は昭和の荻生徂徠だ」と話したと以前勤めていた財団の橋本理事長から聞いた。理事長は丸山真男のゼミだったようだ。但しこの話は、理事長と私の個人的な飲み屋の席だったので何の保証もない。荻生徂徠は社会科の教科書に一行程出てたと思うが、その名前以外に何も覚えてなかった。しかし、そのときの理事長の話でなんだか身近に感じるようになった。少々脱線するが、教科書でしか知らない河村瑞賢も、富士通で隣に座って電子交換のソフトウェアを教えてくれた河村道行さんを通じて身近に感じられるようになった。何かの会話でジョークとして「河村瑞賢と河村さんは関係あるの?」と聞いたら「実はご先祖なんだ」というので驚いた。それ以来、私の周りの気の置けない連中は本人の前以外では"瑞賢さん"と呼んでいた。最後に二人で飲んだのは香港だったが、アルゼンチンにも長く駐在しており、今はどこにいるのやら?バイオリンが上手でクラシック好きだったので、ヨーロッパに移住したか?もしこれを読んだら連絡下さい。

さて、この記事では、日清戦争の勝利によって日本人が中国人を見下すような風潮が高まり、中国人をバカにしてチャンチャンなどと子供までもが使うようになったとある。私が小学生の頃も、チャンコロという言い方で中国人を見下す言い方をする級友もいた。恐らく親がそう喋っていたのだろう。そもそも私が住んでいた田舎には中国人はいなかった。この段落では、谷崎潤一郎が「われわれが欧米人からジャップと呼ばれたものと同じような意味でもある(略)中国人に対して甚だ失礼である」と回想しているとのこと。たった一度だけだが私は「ジャップ」と呼ばれたことがある。1974年の夏の終わりの土曜日、バッファロー空港からナイヤガラ瀑布を目指し一人でレンタカーを運転していた時だった。バッファロー市内で道に迷ってしまい誰か人はいないかと住宅街をうろうろしていた時に、道端で幼い女の子二人が遊んでいた。その子達が車を停めた私を見て、一人が"Jap?" それに答えてもう一人が"No, Chino."と話したのだ。目の細い私は中国人に見られたようだ。英語の聞き取りには自信があり、はっきりと聞き取れた。その時初めて、米国では中国人をバカにしてチノと言うことを知った。彼女達の家庭では親がそういう風に話していたのだろう。なお、歩道の先の芝生の向こうにある白い家からは御両親が彼女達を見張っていただろう。ライフル銃で撃たれなくて良かった!

このコラムは"熱風の日本史"という表記で、歴史の教科書と記述手法がかなり異なる。実際の出来事を正負の両面から史実に基づき生々しく記載しているところがよい。正負どちらかに読者を振り分けようとするのでなく事象を的確に、かつ付帯的な情報を踏まえて書かれているから読んでいて面白く安心もできる。大勢の人が日曜の午前中はこのカラムを読んでいると思うが、人それぞれに歴史を踏まえてふと自身を振り返ることもあろう。特に私を含め老い先短いロートルには!
元に戻る