日本文壇史5 伊藤整編

親父は本を読むことが趣味でした。そうしていることが最も落ち着くようでした。まだ、テレビが我が家に無い頃、寝る前は親父もお袋も寝床で本を読んでいたような気がします。
●日本文壇史5 伊藤整編  2013/09/03

親父の本箱の上段に「日本文壇史」という全24巻の小説家などのエピソードを綴った百科事典のようなものがある。特に興味は無かったが、編者が伊藤整だったのと親爺が詩人のはしくれだったことで「第5巻詩人と革命家たち」を手にとってみた。小説家や歌人などのエピソードや交友関係などが飾らない文章で記述されており、読み始めたら一気だった。なぜかところどころに親父が書き込んだ赤線が入っており、何かの印なのだろう。恐らく、何かに書いたエッセーに引用したのかも知れない。田舎に住み情報の欠落していた親父には本がたった一つの情報源だったようだ。今のようにInternetが世界中に張り巡らされ外国にタダでテレビ電話ができる時代は想像だにしなかっただろう。

さて、私がまだ独身で会社勤めをしていた頃、正月かお盆の休みで帰省していた時だったと思うが、親父が「独歩の"武蔵野"の舞台は渋谷駅のそばだったんだって」と私に喋ったことがあった。その情報はこの本の「この明治30年の末、木枯らしが吹きはじめた頃、国木田は前年の九月からこの年の春まで住んでいた渋谷村百五十四番地の丘の上から見た武蔵野の景色を思ひだした。・・・」を読んだからだと分かった。明治30年頃の渋谷は一面雑木林だったようだ。私も大学1年の時は渋谷で過ごしたが、武蔵野の面影はどこにも無かった。勿論オリンピック公園はあったが、そのはずれにはワシントンハイツの名残があったような気がする。もしかすると、明治神宮の森が国木田が描く渋谷の面影を残しているのかも知れない。

もう一つ本当?と思ったことは、なんと島崎藤村が東京音楽学校(*)のピアノ科に在籍していたこと。その在学中に知り合った滝廉太郎が中学唱歌を編纂する際に、藤村の紹介で土井晩翆に"荒城の月"の作詞を依頼したそうだ。そもそも島崎藤村のピアノ演奏については全く聞いたことが無いが、そういうこともあったのだ。当時の文壇というのは現在と異なり、出版社の数も少なく筆一本で食える人は一握りだったろうから。恐らく小説家は皆知り合いだったのだろう。
*: 現東京芸大

なお、この本にはゴシップを隠さず、というかそれを主題に記載しているが、上記三人には遊郭通いや、酒などによる生活破綻は無かったようだ。この本に登場する詩人や作家は、多くが破綻し、ごく少数が成功したことが記されている。今でも文筆家の中で筆一本で食える人はごく少数だろう。あの龍之介でさえも、書けなくなり自ずからこの世を去ったのだから。読めば読むほど憂鬱になる本である。龍之介は、勿論今も私達にその存在を訴えているが、私のような凡人は何の才能も無いことに気づいた時点で、人生の過半が過ぎてしまっているということは悲劇としか言いようが無い。
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