ローマ字論

日本語は難解です。私は国語の時間が苦痛でした。しかし、今は日本語を大切にしています。

追記:2014/3/2

ローマ字論化の経緯が詳述されていて、初めて知ることも多々ありました。最も驚いたのは、有名な民俗学者の梅棹忠夫氏が1990年代になっても「日本語の表記をローマ字化しないと21世紀のなかばに日本文明は滅亡する」と表明したこと。梅棹氏が文部大臣にならなくて良かったと思います。

追記:2015/10/5

ローマ字論のみならず、戦前と戦後で何が本物であったか、その後も誰が本物だったか分かりますね。私レベルの凡人は、せいぜい後ろ指さされないように人生を過ごすことで精いっぱいですが。ただ、後ろ指さされるなどとは考えた事もなく他人の物を奪い去る人がいることはいったいどういうことでしょうか?性格?

●ローマ字論 2013/03/28

終戦直後に日本語をローマ字表記にしようという動きがあったことは、今考えれば"お笑い"のような話だが、事実のようだ。GHQが主体となって日本人言語学者もつるんでいたが、結局立ち消えとなって私としては本当に良かったと思う。万が一そうなっていたら、同音異義語が多くかつ複雑な文法の日本語は大混乱となり、国語教育などは不可能となり、それに伴い産業育成なども進まず民族として滅んでいたかもしれない!戦勝国のアメリカは丸腰強制憲法9条を押し付けた上、言語表記まで自分達に読めるアルファベットにしようと工作していたのだ!これが非道な強制だとは、私ごときが考えても分かる。お隣韓国では自ら漢字を廃し、ハングル文字だけでうまくやっているようにも見えるがどうなっているのだろう?

ローマ字論以前に、そもそも日本語の柔軟性がその教育を困難にし、書いた人にしか書かれた文章の本当の意味が分からないことがあり、それが国語の試験で満点を取る事をほぼ不可能にしているのだと思う。どうとでも取れることが物事をあいまいにし、一方それが対立点を柔軟にする潤滑油的効果があるのかもしれない。よく言えば、状況によっては一切合切の意味を包含し、書かれてないことまで想像させる魅力ある言語とも言える。しかし、そういう魅力は、当事者である私たち日本人には分からないのだ。例えば、あれ、それ、これといっても、長い文章や段落の特定の部分で表示される指示語は、結局どうとでも解釈でき、正解は書いた人にしかわからないことがある。谷崎潤一郎の小説を読めば、日本語の難解さがよく分かる。どうとでも解釈できる文章がしばしば出現するからだ。但し、私は天才谷崎の偉大さを理解しており彼を愚弄するものではなく、それが彼の文学でありことばの芸術である。

出典は不明の話だが江戸末期ペリーだったか誰かがお殿様に会見したときのこと、複雑な内容を通訳が長々と御説明をした後に、お殿様は『よきにはからえ!』との一言で終わったそうだ。我々日本人にはその一言の意味が分かるが、ほとんどの項目をYes/Noで言い分けなければならない英語では翻訳しようがない。このことは、言語の違いを通り越した文化の違いで、なんとも言いがたい言語的特性なのだ。なお、その時列席した米国人達は「日本語はなんと素晴しい言語だ」と言ったとのこと!私自身のことについて言えば、米国で何の悪気もなく話した一言が決定的な問題を引き起こしたこともある。つまり前後の条件を喋らずに、いきなり日本語を直訳で英語にしたのだ!それについては別途書こう。

さて、我が国のローマ字の導入がどれだけ良い結果を出したか、悪い結果となったかということだが、良かった面が圧倒的に多いと思う。悪い面はたった一つ、英語学習時の発音への影響である。良い面は、日本語に新しい表記要素を与えたことにより、特に近代の産業発展には画期的な推進力をもたらした。私は仕事柄コンピュータマニュアルをよく読むが、もしローマ字がなく、代替表記としてすべてカタカナとすれば、しばしば理解困難な場面に遭遇するだろう。それくらいコンピュータにはローマ字が欠かせないのだが、医学や経済学などそもそも専門用語がヨーロッパ・アメリカを起源とするあらゆる学問には不可欠だろう。

言語は人種や民族を構成する不可欠な要素であり、中でも世界的に特異な言語である日本語は日本人のアイデンティティそのものだ。漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字と表記要素があるが、漢字をデフォルメしたひらがなとカタカナは我々の祖先が発明し、これにより外国語を躊躇無く導入できた。これらの姿勢、つまり極東の辺境に大陸と海を挟んで位置する小国の我が国が文明発祥の地からあらゆるものを素直に受け入れてきたことが、驚異的な発展をささえた一因だろう。一方、愛国主義を曲解した近視眼的国粋主義が外国の文化や言語を排斥した時期は、多くの国と敵対する混乱と殺戮をもたらしたことも歴史が示している。二度と愚行のなきよう意識し、かつ柔軟に外部からの要素や情報を受け入れなければならない。但し、他国からの侵略には躊躇なく反撃すべし。
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追記:"熱風の日本史"を読んで 2014/3/2

今日の日経は「漢字全廃、ローマ字に」という表題で、敗戦後のローマ字論化の過程が詳述されている。ローマ字化を主張した人は今や皆あの世だが、こう書かれてしまうと草葉の陰で苦い思いをしているだろう。文脈からは国語審議会が推進した「当用漢字」や「現代かなづかい」なども問題ありとの論調である。言葉は変遷し、それは文化だとも言えようが、あらゆる決め事に関して"圧力団体化した集団"が決めたものは概ね良くない結果になりがちだ。最後は歴史によって証明されよう。ただ、その時点で当事者は皆消えており、誰も責任を取る人がなく、我々庶民が迷惑をこうむることが問題だ。

追記:"私の履歴書"より 2015/10/05

JR東海元社長の葛西敬之氏の記述から引用すると、


 戦争に負けたことで、世の中には自信を失い、自己否定に走るような風潮があった。東大や京大の教授までが「日本は漢字を使っているから遅れている。すべてローマ字にしたほうがいい」などと真面目に主張していた。

 そんな中でも渡邊先生はまったくぶれない。一貫して日本の歴史に対する誇りや、国を思う気持ちを熱く語っていた。子どもの私も、ローマ字論者に対しては「とんでもないことを言う人たちだ」などと、渡邊先生と一緒になって憤っていた。


ここに出てくる渡邊義男氏は、師範学校出身で陸軍航空隊の予備士官として南方戦線で戦ったそうだ。恐らく学徒出陣だろう。若くとも立派な人がいるのだ。一方、戦争に負けたとたんにローマ字にせよと叫んだ学者に限って、戦争中は西欧の学問など糞同然と叫んでいたのだろう。とかくその場かぎりのことをヒステリックに叫ぶ人には注意が必要だ!さりとて、生徒は先生を選べるような立場に無い!
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