早坂暁氏の不戦論に反論する

不戦論者が出てくる度に反論したくなる悲しき性の我が身です。現憲法を理不尽と思いつつ、他国からの我が国への侵略に対し座して死を待つことは絶対にお断りします。その折には、将来を担う若者に代わり、この老骨が最前線にて侵略者を迎え撃つ所存です。

追記:2013/12/3

今日の日経夕刊、昭和電工相談役の大橋光夫氏のエッセーに、私の意見と少々類似する点があったので索引しておきます。

追記:2014/4/11

今日ほど驚いたことは久々です。日本を骨抜きにした連合国の意図を全く理解せず、たった今問題となっている尖閣諸島の危機や、終戦以降ロシアに占領されたままの北方四島とそこを追い出された人たちのことを考えたことのない人がいることは残念です。教科書に本当の経緯を記載し、子供達に伝えることが重要だと思いました。

追記:2014/4/17

ロシアがウクライナのクリミアを併合し、次の段階に移りつつあります。これを踏まえた不戦論者の弁を聞きたいところですが、新聞やテレビなどには何の反応もありません!

追記:2014/05/19

親父の軌跡を追ってますが、こんなものを書いていたとは知りませんでした。

追記:2014/12/16

ノーベル賞の所長さんでさえも勘違いをするのですから、私のようなボケた小父さんの勘違いは当たり前でしょうね?会社の独身寮で一緒だった友人がよく言ったことに「世の中には、間違い・気違い・勘違いが多いからな!」があります。それをモジって私はある事象を捉えて「世界の三違いだな!」と家内によく喋っています。勿論私のボケを黙って聞いてくれるのはネコと家内しかいませんが。

追記:2017/1/23

吉本隆明氏も鬼籍に入りました。いずれ皆忘れ去られることになるのですが、なんとなく寂しいのは私だけでしょうか?

追記:2017/8/21

日経新聞に8月17日から「天皇と戦争」について連載が始まりました。私の資質としてこのような記事に過剰反応しすぎかとも思います。もっともこの歳になると反応することが日々無くなっていくことが問題ですが、遠からず壁に向かって独り言をささやくようになり、そしてあの世に行くでしょう。

●早坂暁氏の不戦論に反論する 2013/8/3

この時期になるとこの類のエッセーや記事が頻出するが、2013年8月3日日経夕刊に、「ヒロシマを語り継ぐ:早坂暁さんに聞く」のインタビュー記事が出た。5時間を超えるインタビューだったと記載されている。早坂氏の意見は、現憲法第9条を守れということ。主段落を引用すると、「戦後68年間、日本人は他国へ出かけて一人の敵兵も殺さなかった。これを最高の誇りと考えなければいけないのです。今の戦争放棄の憲法を押しつけだなどと主張する人がいるが、とんでもない。戦争放棄を選んだ背景には、第2次大戦で亡くなった300万人を超える兵士や市民の血と涙の叫びがある」とのことだ。

私の意見とは、正反対である。私は「今の戦争放棄の憲法を戦勝国からの押しつけ」と確信しており、日本人を骨抜きにしようとする戦勝国側の意図が明らかである。上記の段落は5時間の会話という長い脈絡の一部だから、私の反論と彼の言い分がずれているかも知れないが、軍隊が無いばかりに戦後理不尽に殺戮された日本人は一人や二人ではない。終戦後の混乱の中、中国や東南アジアから帰還の途中で大変な数の日本人が殺された。シベリア抑留では、5万人以上が殺されたという。李ラインでは、44人の死傷者が出たとの記述がある。早坂氏には、これらの理不尽な日本人の死について聞きたい。さらに、北朝鮮に拉致された人達をどうやって救出するのだ。"第2次大戦で亡くなった人たちの叫び"とのことだが、私はその叫びを早坂氏とは真逆に受けとめている。

ただ、当時の軍部首脳にはあきれ果てる、負け戦になったとたん奈落の底にころがり落ちてしまい、降伏も遅すぎる。ヒットラーもムッソリーニもとっくに消え、目前で大勢の市民が爆撃にさらされ死につつあっても、それでも一億玉砕を叫んでいたのだ。市民、子供や年寄りまでをも道連れにとは、軍人として、そもそも人として潔くない。誰が考えても勝てない戦争を始めたことは、彼らの無能さと驕りであったことは否めなく、それが最後まで尾を引いて事態を益々悲惨にした。駐在武官として世界中の大使館に選りすぐりの軍人を多数配属していたのに、彼らは一体何を見てきたのか、何を勉強してきたのか。

第二次大戦の開始と帰結だが、最終的に天皇の戦争責任問題に行き着く。戦前と戦後の天皇の権力は雲泥の差だが、現人神であった昭和天皇の戦争責任を問う人は多々いる。即ち、天皇のみが戦争の開始・終了を宣言することができたからである。盧溝橋で事件が発生したとは言えども、直ぐに兵を退けと天皇は命令できたのだ。私と親爺とは、天皇の責任問題を明に議論したことが無いが、親爺は天皇のことを良く思ってなかったのかどうか、特有の呼び方をしていた。職務上それを声に出して言い難かったのだと思う。逆にお袋は、天皇家を親戚のように思い、"皇室アルバム"という番組はテレビの正面に陣取り真剣に観ていた。特に幼時の現皇太子が出てくると、本当にニコニコして自分の子供や孫よりもずっと親近感を持って観ていた。戦前の幼児期からの教育で刷り込まれたのだろう。脈絡とはずれるが、これに限らず、両親はあらゆる面で位相がずれており、実に両極端だった!

最後に、我が国が軍隊を持つとその指揮権は総理大臣が持つが、歴代の総理を思い返すと寒気がするような人が何人もいたことは悲しい。彼の命令で死地に赴くか?そういう意識で選挙に臨みたい。しかし、選挙制度上自分で選んだという認識が持てなく、悲しいことにしばしば変な首相が出現する要因ともなっている!
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追記:日経夕刊より:2013/12/3

今日の日経夕刊、昭和電工相談役の大橋光夫氏のエッセーには「先送り」との表題で、先の大戦の降伏の"先送り"が如何に大きい犠牲をもたらしたかを述べている。つまり、何の勝算もなく、全く信頼できない"ソ連"の仲介に望みを託したという馬鹿げた決断のことだ。さらに、今日の日本の経済を憂う状況を、先送りが課題だと言う。私も同様に、ダラダラと何も考えることなく、いつか時間が解決するだろうという消極的な願望では決して解決しないと思う。過去20年の負債はそうして作られてきたのだ。単に運が良かっただけの過去の特異な状況の再来を夢見ることは、勇気と勤勉をモットーとする我々日本人に相応しくない。負け戦となったとたんに思考力を喪失することが国民性だなどとは言われたくもないからだ。

追記:Yahooニュース(朝日新聞社:憲法9条)より:2014/4/11

「憲法9条をノーベル平和賞に」推薦受理と実行委に連絡があったという。「そんなバカな」と思ったが、朝日新聞デジタル 4月11日(金)11時34分配信ということだから本当なのだろう。あまりにもバカげた話なので、ここで抗議する。"事務局の岡田えり子さん(53)は「受理されてうれしい。受賞者は個人か団体となっているが、受賞者を日本国民としたことを委員会は受け入れてくれた。これで日本国民一人一人が受賞候補者になった」と話した。"とある。私は日本国民であり、かつ改憲論者である。私や他の改憲論者を無視し、日本国民を代表して申請したことを心底怒っている。憲法9条を盾に、中国やロシアが我が国に攻め込んできたらどうするのだ?つい先ごろクリミアがロシアに攻め入られ併合されたことを知らないのか?尖閣、北方四島、竹島のことを知らないのか?岡田えり子氏が何者かは分からないが、時期が時期だけに中国やロシアから支援を得ているのかとも思ってしまった。もし本当にこれがノーベル平和賞となったら、私は一人の日本人としてストックホルムの授賞会場に行き阻止活動をする。重要なことは、早々に改憲し座して死を待てという現状を脱することだ。

追記:ウクライナの情勢を憂う:2014/4/17

今朝の日経では、"ウクライナ政権に焦り"とのことで、ウクライナの親ロシア派の動向などを伝えている。さらに、隣国モルドバでロシア系住民の多い沿ドニエストル共和国議会がプーチン大統領に対して独立承認を要請する文書を採択したとのこと。ウクライナの現状はテレビや新聞で報道されているとおり、ロシアのなすがままだ。頼みの国連も米国もなすすべがない。これを見て、不戦論者はどう考える?何の意見も出てこないところが、彼らの限界を示している。平和論だけでは、有事において何の役にもたたない。自国を守るという高い意識と、それを身をもって示す強力な軍隊がなければ我が国がウクライナのように分断されることもあり得る。"理屈と膏薬はどこへでもつく"からだ。

追記:昭和天皇の崩御の日について 2014/05/19

親父が昭和天皇に対する見解を明に書いていたことが分かった。昭和天皇崩御の時を日記のような詩にしていたのだ。"詩人会議 1990 1月号"に"あの日のこと『ゼムゼムからアラメインへ』を書いたキース・ダグラスのために"との題目で

あの人の死んだ日
空気が軽くなったような気がした
その日、私は
砂漠で戦車戦に従った若い詩人の本を読んでいた


子供の頃に"拝聖殿"に向かって何度もお辞儀をさせられたこと、東京では市電がお濠ばたを通るときには乗客が皇居に向かって立ってお辞儀をしたこと、専門学校生の頃周辺の住民や小学校生などと一緒に天皇の通過時に電車通りに並ばされて最敬礼させられたことなどを綿々と綴っている。これを詩とみるかどうかだが、私には親父の日記である。

"拝聖殿"を知らない人は多いだろう。私も高校に入るまで知らなかった。私が高校に入ったとき、校門を入ってすぐ右側に拝聖殿の土台だけが残っていた。これは少なくとも昭和40年の時点で存在していたが、その後校舎が高台に移転したことで消滅した。写真でも撮っておけば良かった。あんなものに何の価値も無かっただろうが、何故か最後まで土台を撤去してなかったことは、戦前から綿々と続く我が母校の校長や先生方の気骨ある抗議の姿勢だったのか?狂気の時代の名残だったが、あのようなものに毎日登下校の際にお辞儀させられていたら、普通の生徒ならば頭がおかしくなっても仕方ない。

追記:Yahooニュース(YOMIURI ONLINE:憲法9条)より 2014/12/16

馬鹿げた話だったが、先のノーベル平和賞候補の「憲法9条を保持する日本国民」はオスロ国際平和研究所長クリスチャン・ハルプバイキン氏の単なる勘違いだったとのこと。苦し紛れの後付けの言い訳と感じるのは、私の勘違いか?そもそも授賞対象者の日本国民には改憲論者を含め、重大な犯罪を犯し刑務所にいる人もいれば、テロ戦士として渡航しようとする人もいるのだ。なぜ日本国民全員が平和賞候補になるのか"気が狂っている"としか言いようがない。ジョークにしては少々ワサビが効きすぎだし、イグノーベル賞には平和賞が無かったハズだ!オスロの授賞式会場に反対の旗を持ってなだれ込まなくて良かった。もう一歩のところでとんでもない勘違い行動により、逮捕されるところだった。我々が平和賞候補になったことでWebでも多数の意見が述べられているが、エネルギーの浪費だった。私のこの意見も含め!本件を推薦した日本のノーベル賞審査委員の常識・良識を問う。いったい誰が推薦したのだろうか?

追記:"背景の記憶"を読んで 2016/1/23

吉本隆明の上記の書に"小学生の看護婦さん"との表題で、祭日の式典でのことを記述している。早坂氏の不戦論とは少々脈絡がズレるが、この看護婦さんは本物の不戦論者だ。

…その頃慣例になっていた"御真影"(天皇の写真)遥拝のとき決して敬礼しなかった。最敬礼のとき、うわ眼つかいで様子を見まわすと、その看護婦さんだけが、いつも静かに頭を下げずにいた。そのころは、少しけげんに思っただけだが、後年考えてみると、確固としたキリスト教の信者だったのだとおもう。戦後になってから、その面影の看護婦さんから異性の優しさ以外のものも受け取った。…

とのことだ。看護婦さんの中に戦時中に天皇に頭を下げなかった人がいたのだ。この本は"鮎川信夫との交渉史"という章で鮎川と吉本の交際のことが書かれているので読んだ。そこには後年エッセーイストとして開花した鮎川の人間性が垣間見える。あの吉本をも完全に超えているところだ。

追記:象徴と戦争より 2017/8/21

日経の記事(8月17日より連載)によると昭和天皇は敗戦直後の9月、日光にいた皇太子に手紙で

皇国を信じすぎた国民が米英を侮り、精神論に傾いた軍人が科学を忘れた。三種の神器と国民を守るため涙をのんだ

とつづられていたとある。

昭和天皇が敗戦を国民と軍人のせいにしていることに違和感を覚える。天皇御自身が開戦と敗戦を決断したのだ。国民を守るために降伏することは当然だが、なぜ三種の神器なのか?科学を忘れたと非難しているが、神器といえ科学的には単に古い物でないか?この記事を読んだ多くの人はどう判断するのだろう?

昭和天皇の戦争責任論として、天皇が病床にあった88年当時の長崎市長本島等氏が「私の軍隊生活からも天皇の戦争責任はあると思う」と議会で述べたとある。本島氏の意見は戦争体験者の一意見かも知れないが、長崎市長として決してうやむやに出来なかったのだろう。私自身は皇室の存在に今のままで良いかと思うこともある。あと30年もすれば戦後100年である。戦争を記憶する人は全員あの世に行き、象徴論は全く予期せぬ展開をたどるかも知れない。象徴の選別は、公平公正を期するためくじでとかダライラマのような方法など、酒の飲みすぎで思考停止か?
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