JA1AEA(鈴木肇氏)の自叙伝

この歳になると、新たな知り合いが出来ることはなかなか無いと思いますが、鈴木さんはその一人です。

鈴木さんもこの文中に出てくる野瀬氏と知り合いだったそうですが、意外なところで繋がりがあることに驚きます。

追記:2016/4/21

人間の記憶というのはいかに曖昧なものかと思います。ただ記憶が無くなるのは仕方ないですが、物が無くなるのは困ったものです。なぜか気づくと事務所のPCの電源ケーブルやディスプレイケーブル、USBケーブルなど数十本が無くなっていることに驚きます。

追記:2016/4/25

「忘却とは老化である」とは自身を振り返った私の実感です。あらゆることを忘れて最後にあの世に行くのですが、忘れたいことが忘れられないのは困ったものです!

追記:2016/7/7

鈴木氏から御指摘がございましたので日の出寿司の詳細につき追記しました。冒頭の段落をご覧ください。
●JA1AEA(鈴木肇氏)の自叙伝 2015/8/12

鈴木肇氏はコールサインJA1AEAとして古くからのアマチュア無線家にはよく知られている。私の場合は鈴木氏を"SSBハンドブック"や"キュビカルクワッド"などの技術誌で知っていた。また当時鈴木氏が流暢な英語で交信する様子が四国の片田舎に住んでいた私にも受信できたことを覚えている。その鈴木氏とひょんなことで知り合った。私の友人の相馬氏(KH6JA)から「鈴木さんと小岩の寿司屋(*)で飲むから来ないか」とお誘いがあったのだ。もう1年以上も前になるが、その時の相馬さんの弁によると「鈴木さんは強烈な個性のベランメーの下町訛りだから鎌田さんには太刀打ちできないだろうけど、それだけは意識しておいてね」だった。
 *:これを読んだ鈴木氏から「俺の懇意の寿司屋の名前が記載されてネーじゃないか!」との御指摘だったので、追記しておく。日の出寿司 住所:江戸川区西小岩5-9-8 電話:03-3673-6965 愛国学園短大のすぐそば、総武線小岩駅と京成線小岩駅から歩いて数分のちょうど中間地点。このブログを見たというと一貫サービスかも?勿論ネタと味は保証。 追記:2016/7/7

それで、寿司屋で三人で飲んだ際の印象として、失礼な言い方だが、鈴木氏は口が悪いが紳士(*)である。そういうことでお目通しいただき、その後ちょくちょくskypeで交信している。さて、このエッセーを書こうと思ったキッカケは、鈴木氏の自叙伝だ。鈴木氏は自叙伝をアマチュア無線誌CQに数年にわたり連載し、それを再編集して最近出版した。この本を読むうちに私が若い頃買った本の話も出てきたので本箱から引っ張りだしてきたのが下の写真である。当時はSSBという通信方式が一般化しつつあり、メーカー製の通信機も販売され始めていた。私もトリオ(現KENWOOD)が開発した最初のSSBトランシーバTS500を買い込み遊んでいた。
 *:口の悪い人を紳士とは言わないのではとも聞こえてきそうだが、イギリスではジョークは紳士のたしなみとも言うらしい?ただ、鈴木氏の場合はブラックユーモアかも。



中上が鈴木氏の自叙伝:JA1AEAの自傳的アマチュア無線史。右は鈴木氏が執筆したキュービカルクワッド(アンテナの技術誌)、その他当時購入した技術誌など。ちなみにこのキュービカルクワッドは初版本で、中古市場で1万円以上するそうだ!

相馬さん(KH6JA)と知り合ったキッカケも書いておくが、私は1979年ホノルルで約半年間ビジネスの研修を受けた。その時、ホノルルアマチュア無線クラブの定期会合で相馬さんと始めて会った。ある夜会合があることをホノルルエレクトロニクスという電気屋さんで聞きつけた。当時は"何でも見てやろう"というキャッチフレーズもあって、私は100人以上出席するクラブの会合で最前列に座った。たまたま隣に座ったのがGeorge Tam:KH6EM(*1)という中国系の人で、親切に私のお相手をしてくれた。途中で司会者が「今日始めて出席した人は挨拶を」と言い、Georgeからせかされ自己紹介をした。喋った内容は殆ど覚えてないが、ハワイに来た目的や、名前と日本でのコールサイン(JA5BTY)と近々に米国の試験を受けるつもりで勉強している(*2)などを喋ったと思う。この会合が終わったときに、相馬さんが私に声をかけてきた。
 *1:元米軍の電気技師で、引退していた。
 *2:運よく一発目の試験で合格し、KH6HKのコールサインが割り当てられた。確か当時は毎週一回試験を実施していたと思う。私が受験したときは、受験者は5人だった。結果は少々待つとその場で発表されるのだが、試験官が私のモールス信号受信テスト結果は満点だと言うと、周りの受験者は「オー」と言った。モールスは過去の交信で十二分に習熟していた!

その後、Georgeの紹介でハワイで最も有名なアマチュア無線家だった野瀬氏:KH6IJ(*)に会った。野瀬氏はGeorgeの家の近くに住み、古くからの友人同士で家族づきあいもしていた。野瀬氏とGeorgeの奥さんは共に小学校教師で同僚だったそうだ。ある日、Georgeから電話があり野瀬氏の家に遊びに行くからと誘われた。私は「野瀬氏に花束を買っていく」とGeorgeに言うと「花よりダンゴだ」と言われ、果物を買っていった。その時に、Georgeは野瀬氏に「Shinjiが花束をと言うから果物にせよと言ったんだ」と話した。このエピソードには中国人の実利主義を強く感じた。Georgeはその後何かと私の面倒を見てくれたが、新婚旅行に行った際には一週間車を貸してくれたり、彼と娘さんのBarbraが中国の親戚に成田経由で会いに行った際には、わざわざ成田の日航ホテルに一泊し我々夫妻をディナーに招待してくれたりもした。
 *:ハワイ大学教授だった。

これは書くべきかどうかという内容だが、Georgeの奥さんEileenから「野瀬氏の娘さんはまだ独身だが、彼女を結婚相手として考えたらどうだ?」と言われた!いきなり仲人さんが現れてビックリしたが、自由恋愛の元祖米国でもこのようなこともあるのだ。もっともジョークかなとも思うが、それが目的の面通しだったかも?そういえば、相馬さんからもある女性を紹介されたがそれはここでは書かないでおこう。あるとき深夜の交差点で止まったら、お腹の大きい若い白人女性から車が無いので家まで乗せてくれと言われ、ついつい気の毒になり家まで送ってあげたことがある。その間、私の生い立ちを聞かれたり、彼女の恋人との愚痴ばなしを聞かされたり、最後にキスしてあげると言い出したので丁重にお断りした。私は如何にも貧相な日本人だから、お礼にキスでもしてあげようと思ったのか?たかだか半年の滞在にすぎないが"エー"ということで、書けないことも幾つかある。それらのハプニングは冥土の土産にとっておこう。
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追記:野瀬氏のカードが出てきた 2016/4/21

上記エッセーでは、私が野瀬氏と会ったのは1979年のことだと記載しているが、野瀬氏からその時にもらったカードによると、Apr 15 1982(*)と記載されている。こんな間違いがあるのだろうかと自分でも理解できない。ハワイには何度も行ったが、1982年のことを思い出せない?野瀬氏の経歴が記載されたURLによると、1979年3月に脳卒中を発症し、ハワイ大学の物理学教授をリタイアしたとある。私が初めてハワイに行ったのは丁度1979年3月だった。ホノルルアマチュア無線クラブの会合に野瀬氏も出席していてその場で私の隣に座っていたGeorgeが野瀬氏を紹介してくれたが、握手だけでお喋りしなかったような気がする。

私が野瀬氏のお宅を訪問したときの奥さんの話だが「病気をしてから日本語が全く話せなくなった」とのことを思い出した。手の動きも少々困難になったとのことで、文字が躍っている。"JJ1KTX Personal QSO"(*)とは、私と個人的にお話したとの表記。なぜか大昔の出来事を昨日のように思い出し、その内容や前後関係があいまいなことがあるのは、もう老い先短いということだろうか?やりたいことは沢山あるが、最初の一歩やアイディアがなかなか出ないことに老いを感じる。
 *:JJ1KTXは当時の私のコールサイン、QSOとは交信。

追記:野瀬氏とは都合3回会っていた 2016/4/25

上記を読んだ家内によると、1982年は新婚旅行でハワイに行き我々夫妻は、George夫妻の招待で野瀬夫妻、相馬夫妻と共にホノルルハーバーに係留された洋上レストランで中華料理を楽しんだとのことである。言われてみればそうだったと思うが、野瀬氏と相馬さんのことは思い出せない。しかし、家内による野瀬氏の印象は寡黙な人とのことだから間違いないだろう。家内が野瀬氏に会ったのはたった一度だから。私はその時のことを船に乗ったことと料理が非常に美味しかったことを思い出した。Georgeの話で覚えていることは、その船はもともと香港にあったが、ハワイまで運んできたとのこと。いずれにせよ、新婚旅行のことはきれいさっぱり忘れていたことで家内からきついお目玉をくらった!そういうことから上記のカードは野瀬氏から洋上レストランでもらい、私は野瀬氏と都合3回会ったことになる。
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