親父と英語

子供の頃の思い出は、忘れようとしても忘れられないものです。それが楽しい思い出だったら良いのですが!

追記:2014/11/10

書き物には気をつけなければと思うけど、こうなって書籍になってしまうと消せないことが問題ですね!まあ、このようなことをいちいち気にしていたら最初の一歩を踏み出せなくなりますが。
●親父と英語 2014/11/07

親父は高校で英語の先生をしていた。学歴としては戦前の明治学院で商業を学んでおり、英語は専門でない。私の中学生の頃の話だが、親父の弁によると英文科に行きたかったが履修に4年かかり、かつ英語では飯を食えないとのことで、金欠病だった爺さんの願いもあり3年で卒業できる商業科にしたとのこと。当時は英語さえできれば仕事はいくらでもあったのだが、ど田舎に住んでいて情報の欠落していた爺さんと親父の決断だから仕方がない!

さて親父の英語の能力だが、私が小学生の頃バーナード・ルドフスキーという米国の著名建築家が隣町の津田というところに一年間住むことになり、その通訳として親父が指名されたそうだ。ルドフスキー氏は県のお客さんとのことで、公務員である親父は断れなかったようだ。親父はこの時の交際を通じて、ルドフスキー氏についてエッセーを書いているが、当初依頼を聞いて嫌だと思ったそうだ。ところが、ルドフスキー氏に会ってみると親父を単なる通訳としてでなく、友人のように付き合ってくれて楽しかったと書いている。私はたった二度だが親父に連れられてルドフスキー氏の家に遊びに行ったことがあるが、親父は彼と普通に喋っていたからそれなりのレベルの英語だったのだろう?私自身が英語を理解できるようになってからは、親父の英語を聞いたことがない。ところで何故親父は全く英語を理解しない私を連れていったのかは今となっては謎だ。恐らく私を外人に慣れさせる為と自分の家族を紹介したかったのだろう。

親父のエッセーによると、ルドフスキーの奥さんベルタさんがドナウ川で水泳訓練を受けていたとの話があり、夫妻は水泳ができることが日本の住居の条件だったとのこと。たまたま当時の県知事や香川県ゆかりの国際的な建築家などの縁でルドフスキー夫妻は津田に住むことになったそうだ。あるとき津田の高校に通う従妹が「海岸に行ったら外人のしわくちゃのおばあさんがビキニで泳いでいて驚いた」と話した。実はそれがベルタさんだった。当時ビキニは、我が田舎では皆無だった!1950年代終わりの5月頃に、我が田舎で外人老夫妻が泳いでいるのだから津田高校の生徒達の噂にならないはずがない!

たまたま今日のテレビで、島並み街道の離島振興策について特集していたが、ゲストの中年ドイツ人女性がドイツでは5月から10月が水泳のシーズンだと話したことから、ルドフスキー夫妻のことを思い出した。彼らのシーズンは春から秋までなので日本のように7月上旬から8月のお盆までが季節としての夏で水泳シーズンだとはこれっぽっちも思ってないのだ!私の趣味の一つはサーフィンだが、白人の体感温度は我々よりも少なくとも2度は違うと思う。私が少々寒いなとウェットスーツを着ていても、かれらはパンツ一枚で平気なのだ!夏休みにロスアンジェルスに観光で行き、ベニスビーチで泳いだ経験のある人は、恐らく5分と浸かっていられなかっただろう。なぜ白人が寒いヨーロッパで繁栄したかは、こういうことからもDNAレベルの違いを感じる。
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追記:デスペレート2014/11/10

親父のエッセーに、宗左近のある詩を評して「…前掲の「さくら」で覚えた戦慄、あのデスペレートな幸福感を抱いて、戦中戦後を抱いて…」とあった。この"デスペレート"だが、実は"デスパリット"と発音する。十年ほど前にハワイで友人宅に招待されたときに知った。私がネコを飼うきっかけを喋ったときのことだ。そのネコ(*)は私が会社を辞めた最後の日、駅の近くからしわがれ声でギャーギャー鳴きながら駐車場までついてきて車のドアを開けるとポンと乗ってきたので何かの縁だと思い連れ帰った。エサをやると、ガツガツと吐くほど食べたのでしばらく何も食べてない様子だったことを話すと、ユナイテッド航空のフライトアテンダント(今や死語になったスチュアーデス)だった奥さんが「デスパレーションだったのね!」と言い、その時家内は、形容詞はデスパリットと言うけど、貴方知ってる?と言った。スペルと発音が異なる単語として受験英語に良く出るそうだが、真面目に勉強してない私は勿論知らなかった。このエッセーを読んで親父が発音を間違えて覚えていたことを知り驚いた。
 *:まだ大人になりきってない生後半年くらいのキジネコでチャーコと名づけた。飼い始めて幾ばくも経たない最初の発情期、近所のオスネコが来て交尾したので直ぐに避妊手術をした。チャーコには気の毒だったが、生まれた子猫を保健所に連れていくわけにいかないからだ。私は子供の頃から進学のため上京するまで猫と犬はいつも一緒だったが、チャーコは中でもとりわけ利口な猫だった。猫だけど犬のように私の顔色を伺い、私が主人だと理解していた。"絶望"からの救出を覚えていたのか?
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