祖父の遺言

祖父は絶対に自己の意見を曲げず、いつも自分が正しいと思っており、所謂唯我独尊でした。周りの人はやりにくかったと思います。しかし正直で、そういう意味では信用されていました。私にも頑迷なDNAがあるかもと思うと少々憂鬱です。

祖父の遺言 2014/11/17

我が家は昔から東かがわ市の湊大橋のたもとにあり、家柄と言えるものは無い。我が家の家紋は鷹の羽違いで播州赤穂の浅野家と同じだ。親父は、浅野家取り潰しの際に家臣が対岸のこちらに、そしてその中の一人が我が家の云々と言っていたが、後付だろう!私は、曽祖父を覚えてないが、曽祖母からは子供の頃お小遣いだったかお年玉だったか5円を貰った記憶がある。祖父(鎌田龍太郎)は小学校教員を定年退職後、間口一間ほどの文具屋を営みながら書道教室を開いていた。当時の一般的な教員退職者は恩給でかつかつの生活というのが普通だった。

一人っ子だった祖父は白鳥高等小学校を卒業し、大阪で二年丁稚奉公をしたが村の篤志家に呼び戻され、旧制大川中学校(1900年創立、現三本松高校)に入学した。設立5年目の大川中学校は不景気のせいで生徒が集まらなく廃校の危機にあり、それを支援する人が高等小学校で成績の良かった生徒達を呼び戻したのだ。そういうことから、祖父からは『村には世話になった。お前に余裕ができれば恩返しを頼むぞ』と何度も言われた。赤貧洗うがごとくの家庭だった祖父は、授業料がかからず寮費までも支給される香川師範学校に進み小学校教師となった。貧困家庭の生真面目な小学生が、ある幸運に遭遇したことで進学できたのだ。おまけに当時は小学校教員の兵役が免除され、日露戦争や日中・太平洋戦争にも出征せずに済んだとのこと。ただ、当時の村の小学校の先生は、今とは異なり清貧競争の代表選手で爪に火をともすような生活だったそうだ!

さて、祖父の遺言『村への恩返し』だが、現在の我が故郷は人口減を主因とする凋落の一途で香川県では市として唯一の過疎指定になっている。人口のピークは1980年の4万3千だったが、今や3万1千で、65歳以上の比率は4割弱だ。典型的な高齢過疎で、既に市として成り立たないような状況だから、早晩職員数や議員数や給与などを削減し福祉サービスも縮小せざるを得ないだろう。夕張市で起きた炭鉱閉鎖による過疎は、故郷の地場産業の手袋製造業の海外移転に類似する構図と言える。夕張市との違いは、当地の手袋産業は繁栄しているが、人手や設備を要する製造部門が海外に移転し、営業・管理部門のみが本社機能として残っていることだ。情報通の知人によると産業振興や人口増について議論されているが、具体的な施策や成果は無いとのこと。問題解消は、権限を持つ行政当局や議員等は勿論だが、全ての市民に掛かっているのだ。

数年前会社勤めを辞めた時から、祖父の遺言である"故郷への恩返し"を具体的に考えていた。まずは会社を作って一人でも雇用したいと目論んでいたが、未だフルタイム社員を雇う目処は立たず、納税額も最低だ!一方、凋落の一途をたどる地元を再び蘇らせる為の策を数年前から友人知人先輩等と話し合っていたが、「先ず隗より始めよ、と言いまっせ!」との意見から政治団体を設立し改革を訴えることにした。時期的にも年齢的にも今を逃すと祖父の期待に応えられる時は無く、何とか祖父との約束を果たし故郷繁栄の一助となりたい。
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