村上春樹の辺境・近境より

メキシコに行ったのは1979年でしたが、ホテルを出ると何所にいっても英語が通じませんでした。レストランに行っても、"beer"が通じないことには往生しました。その時は、たまたま隣に座っていた若い男が"Cerveza"と通訳してくれて飲むことができました。そういうこともあり、帰国後会社の語学研修でスペイン語を履修しました!

一年間受講しましたが、今南米に行って私のスペイン語でどうにかなるかと思うと、健忘症の私には少々問題があると思います。コロンビア人のマリア先生とメキシコ人のレテーシア先生は、「分かりません」との返事に大変鷹揚でしたから!

●村上春樹の辺境・近境より 2015/06/29

かなり古い本だが、村上春樹がメキシコを旅行した際のエッセーが載っていたので手にした。マザーネイチャーズという雑誌に書いたエッセーである。具体的な日付を記載してないので正確なところは村上氏に聞くしかないが、雑誌の発行日付は92年冬号と93年夏号である。恐らく90年頃のことだろう。書き出しは、メキシコ旅行中に何人からか「あなたはどうしてまたメキシコまで来たんですか?」という質問を受け、云々とある。メキシコシティーならいざ知らず、全く観光客の来ないような町だとそう聞かれることもあるだろう。実家の近所に中学の時数学を教わった先生がいて、妹さんがウルグアイに住んでおり、つい数年前先生が妹さんを訪ねた南米漫遊記を頂いた。それによると、相当危険でとても一人ではウロチョロできないとのこと。先生の場合は、甥を運転手兼通訳としてウルグアイをベースにブラジルなどを回ったそうだ。

ところで、この本の題名"近境"だが、このような日本語は無い。なんとなく読んでいたが、"近境?"と思ったのだ。村上氏の造語だろうが、文中には表題について何の説明もない。私の個人的な事情だが、最近は調査の仕事が多くレポートを書くことが主で、そのせいだかどうだか日本語に敏感になってしまった。村上氏はノーベル文学賞の候補として毎回ノミネートされるが、未だ受賞してない。私には文学が分からないので彼の書について何とも評価できないが、我が同胞が注目されるのは嬉しい。しかし、日本人の感性が外国人に理解できるかということで少々は疑問だ。若い頃から仕事や遊びですれ違った幾多の外国人とはかなり好意的に付き合ってもらえたと思っており、今でもそのうちの何人かは遊びに行くと泊めてくれる関係だ。それでもやはり何かのタイミングで人種の違いを感じることがある。それが表面化すると二度と会えない関係となり、その経験を想い出すと悲しい。

さて、実は私もメキシコをほんの数日だが旅行したことがある。1970年代の終わり頃、ロスアンジェルス、サンディエゴ、メキシコシティと2週間くらいかけて小さいリュックサックを背にウロチョロした。メキシコシティの格安ホテルに泊まり、市内をうろうろついたり、ツアーバスに乗って郊外に行った。その時に驚いたのは、高校の社会科の教科書に載っていた長崎殉教の絵が、観光ルートにあった古いカトリック教会の壁画に描かれていたことだ!もう教会の名前などとっくに忘れてしまっていたが、メキシコ・殉教・絵でサーチしたらいきなり出てきた。ラテンアメリカ博物館とのURL名で、管理者の個人的な旅行記が記載されているページである。実際に彼(彼女?)が行った経験がそのまま記載されているので、かなり内容が濃い。私は再びメキシコに行くことは無いと思うが、そのようなことになれば参照に値する。

この本の中盤には、村上氏がメキシコ旅行中に色々なものが無くなることを記載している。ベルト、シェービングクリーム、トラベラーズチェクなどありとあらゆるものがひとつひとつ場所を変わる毎に失せていくことだ。私はこの類の話を事前に聞いていたので、無くなって困るものはメキシコでは全て身に着けてうろうろしていた。だからホテルに帰って"アレー!"ということや、次のホテルでカバンを開けて"アレー!"ということは無かった。極端な意見だが、高価なものは別として低開発国で物が無くなっても、それは寄付したと思うと少々心も穏やかだろう。終戦直後の日本のような状況で暮らしている人も大勢いるのだ。ただ、今の豊かな日本でも奪えるものなら何でも奪おうとする人も少なからずいることはいったいどういうことなのだろうか?
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