わが家の和船

当時の日曜日、風の無い日は必ずこの船で釣りをしていました。食べきれないほどの小魚が釣れたことを思い出します。釣りにもシーズンがあって、飯蛸、アジなど、年間を通してコチ、ベラ、キスが釣れました。
●わが家の和船 2014/08/19

貧しかった我が家にも少々余裕ができ始めた頃の話だ。私はこの船で和船の櫓のこぎ方を覚えた。大学生の頃、米国から返還直後の小笠原諸島母島で測量のアルバイトを2ヶ月近くしていたとき、測量用に一隻の櫓こぎの船が母島の小さい突堤に繋がれていた。たまたま私しか漕げる人がなくこの船を操りながら仕事をしていた時、石川県から出稼ぎで来ていた漁師が驚いていた。貧弱な体の私にとても櫓をこげるとは見えなかったようだ!当時母島は無人島で、東京都が作った簡易宿泊所と称したプレハブに数十人のおじさん達と一緒に枕を並べて寝ていた。私達測量班は4人で、他の人たちは道路建設だった。山腹の細い道路には破壊された旧日本軍の戦車が朽ち果て、高射砲が天を仰いで錆付いていた。父島には小さい飛行場があり、一式陸上攻撃機やゼロ戦の残骸が転がっていた。私の田舎では戦争の痕跡は山腹の防空壕くらいしか無く、そういうものを見たのは初めてだった。遠い思い出になってしまった父島母島だが、ヨットを買って小笠原経由で南太平洋にセーリングできればと思う。その前に航海術の習得と船舶免許が必要だが!以下、「月刊ペン」AUGUST1981より。

・風船丸の思い出
 衣更着信

もう二昔にもなるが、和船の釣り船を持っていたことがある。浜辺の元漁師の持ち家だった、わらぶきの家に住んでいたころである。

鉄道の駅で二つほど離れた港で、漁船の売り物があるという話があった。瀬戸内海の赤潮のニュースがあるとすぐに名の出る、引田という、香川県では一番東にあるハマチ養殖で有名な港である。

船や魚釣りには全く無経験だったが、その話に乗って、船を見に行った。船の特ち主は、「その船は漁師に貸してあって、今、沖へ出ているが、もうもどって来るだろう」という。春の夕方で、港で待っていると、次々と帰って来る漁船の一つがそれであった。本職が使えるほどの伝馬船では大きすぎはせぬかと、心中危惧を抱いていたが、それは小さくて(船長二間半)船足が早かった瀬戸の夕なぎで池のようになった海面を、「矢のように」滑っていた。わたしは一目でほれこんで買約した。

二間半というと瀬戸内東部では最小に属する。引田で造られる船は「引田船」といって、用材が薄くてきゃしゃだということになっている。水に浮かべると軽くて、非力な者にも扱い易く、とても気に入った。

土地の人たちの用語で、軽い船をひやかしていうのに、「たらいにサルキンを浮かしたような」という形容がある。サルキンとは風船のことで、よって来るところは猿のキンタマの略であろうと思われる。猿のそれは、有名な狸のもののように伸縮自在なのではないか、と想像されるのである。さて、わが軽舟は、わが浦曲ではサルキン丸と呼ばれることになった。全国一般に通じるために、また品位についても一考して、公称風船丸とした次第である。

その名にたがわず風船丸は軽々と動いて、わたしの腕でも意のごとくに操れるようになった。船尾に腰をおろして、左手に釣り糸を持ち、右手で櫓を動かす。潮の流れて来る方向へへさきを向けてゆっくりこぐ−これが釣果を最も釣果をあげるこぎ方である。いかりを入れたり、潮の流れに船を任せていては、魚の食いが悪いのである。

 砂浜から水のうえを押し出されると舟は息を吹き返す
 くさりを解かれたけもの
 振り落されまいとする騎手のように
 乗り手は板のうえに這いつくばる
       -沖へ

これは出航のときの情景である。

 一つの波を乗り越えたときに
 次の気分の悪い波を見て
 自分の船酔いを認める
 一つの病気の直らぬままに
 次の症状のきざしを知って
 人は自分の死を悟る

 一つの非運を
 その次に来るものが裏書さしたのだ
 非運は効力を発し
 実力を備える
 想像は現実となり
 笑っていてはすまされない
        -絶望

これはいささか象徴的な詩の一部だが、船酔いからヒントを得ている。なお、小さい船に酔わないコツは、自分でこぐことだ。こいでいると酔わないのは、とにかく自分が船を支配していると思うためだろうか。

 やがて風が立ったら漂い流れよう
 「たらいに浮いた風船」
 土地の人に与えられたあだ名のとおりに
 ともから垂らしたナイロンの糸を引いて

 細身のいかりはみよしに積んだまま
 漂い流れよう おれの小さな舟
 心は揺れる忘却と輝く光に満たされて
 行ってしまおう
 漂い流れて行ってしまおう
       ―風船丸

詩人の木原孝一に、『荒地』グループの詩人たちの生前の墓碑銘をよんだ戯詩がある。それぞれの特徴や環境をパロディ化したもので、わたしの場合は「風船丸に乗って天までこいで行ってしまった」で終わっている。それはこの詩から思いつかれたと思われる。

その木原のほうが仲間に先んじて故人となった。風船丸はポンコツとなって、解体されてしまった。わたしも今は浜辺の家に住んでいない。
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