心の玉手箱(北原照久)より

北原照久氏の資質と情熱が現在のビジネスを成立させたと思います。
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●心の玉手箱(北原照久)より 2014年8月8日

この日経夕刊の記事には"BRUTUS"1985年6月号の表紙が掲載されている。ブリキのおもちゃのコレクターとして有名な北原照久氏は、コレクションのビデオが作成されその紹介記事がこの雑誌に出るということで手に取ったそうだ。ところが北原氏はこれに掲載された湘南不動産情報がおもちゃの博物館を作るきっかけの一つになったと述べている。実は、私も当時この雑誌を購入し大切に持っている。北原氏が着目した不動産が掲載されていたからだ。なお、この雑誌は"POPEYE"という雑誌の姉妹誌(兄弟誌?)で、ポパイは若者向け、ブルータスはおじさんのためのお遊び全般の情報誌ということのようだ。

私がこの雑誌を捨てないでとってあったのは、この売価8億円の海にせり出した白亜のお屋敷が出ていたからだ。いつだったか思い出せないが子供の頃見た映画でこの屋敷の地下にあるボートハウスからモーターボートで探偵だったかが飛び出していくのを見たことがあった。米国だと庭からボートでお遊びにという住宅は多々あるが、日本の現法律では禁止されているので不動産としては特別である。この家は宮様の遺産とのことで、現法律ができる以前に構築されたのだろう。現在北原氏がお住まいのようで、かなり前になるが奥様と一緒にこの家がテレビで紹介されたのでよく憶えている。ワカメも採れるのですよと、氏が海に入っていった場面もあった。

このエッセーの肝は、この白亜のお屋敷を手に入れようと北原氏がブリキのおもちゃ博物館を開館し、運営会社のトーイズを設立し、誰も考えもしなかったビジネスをものにしたことである。当時は銀行には相手にされず、人脈も金もノウハウもなかったというが当然であろう。北原氏自身で誰もやらなかったことに夢を追い続けたから大成功したのであって、もし大企業がやっていたら失敗しただろう。アイディアは良くても、なんだかんだと横槍が入り、最初の企画とは似ても似つかぬプロジェクトになるというのは私も経験済みである!そもそも能力も気力も無い人が担当者となったのではブリキのおもちゃの価値が分かろうはずもないからだ。

北原氏が出演する何でも鑑定団を見ていて思うのだが、あらゆるジャンルでコレクターがいて、その数は半端でない。もう何十年も前になるが、何でも鑑定団が東京12チャンネルで始まったころ、元住吉の和助がコマーシャルを出していたことが印象に残っている。和助は当時私が住んでいた武蔵中原から二駅目にあったローカルな企業だったからだ。私はこの長寿番組を、最初からずっと見ていたことになる。当時は実にマイナーな番組だったようで、娘が小学校で和助のコマーシャルソングを歌っても知っていたクラスメートはたった一人だったとのこと。世の中が成熟するにつれ趣味をターゲットにしたビジネスが形成されるが、北原氏のように最初に見つけて自ら手がけることがキーである。分かっているのだが!
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