手作りボートの思い出

子供の頃の玩具は、自分で木を削ったり、端材を釘で組み立てたりだったと思います。何をやっても楽しかった子供の頃の思い出です。

●手作りボートの思い出 2014/08/16

詩学1992,10月号に親父は、私が子供の頃作ったボートのエッセーを書いていた。以下を読むと、私が意外と器用だったことを親父は喜んでいたように思える。一方私は、親父のことを炊事も大工仕事も全くダメで文章しか書けない人だと思い込んでいたが、ある日突然愛犬の為にリンゴ箱を分解して屋根にはコールタールシートを張った本格的な犬小屋を作ったのには驚いた。なお、このエッセーに出てくる「…私の友人から船外エンジンを借りて…」は、現在の私の事務所の当時の持ち主だった鎌田勤氏で、「警察のことをよく知っている友人に、笑い話として…」は、私が高校で英語を教わった松下秀男先生だ。先生は生徒指導をやっており、問題を起こした生徒を警察に引き取りに行ったりしていた。我が校では刑務所に入った先生もいたが!以下、詩学より。

・「サンタルチア」号行方不明
 衣更着信

庶民の生活は、戦争中よりも戦後の数年間のほうがいっそう苦しかった。しかしそのうちに、意外なモノが意外な順で現われた。ベニヤ板と釘が手に入るようになると、少年たちのあいだで船を造るのが流行した。もう飛行機からの機銃掃射のおそれはない。少年たちが、自作の船で水の上へ出てみたいと考えるようになったのは自然である。浜辺や港のなかで手製の小船に乗って興じる姿をよく見かけた。

ベニヤ板と大工用の釘だけを使った平底船である。接着剤はまだ売っていなかった。浸水をくみ出しながら、できるだけ水の上にいようという楽しみである。大きいのでは三人乗っているのを見たが、おっかなびっくりで、しかしそれをおもしろがっているのであった。息子は器用なたちで、小さいときから何でも造るのが好きであった。その頃住んでいた家は、裏へ出るとすぐ石垣の防潮堤、その向こうは砂浜という海辺であった。海を友に育ったような息子が、この種の船を手がけぬはずはない。試作第一号のあと、たちまち改良型第二号を作った。

瀬戸内海の波がいかに穏やかでも、海では平底船は使えない。小さな釣り船でも、船底の中央部を船首から船尾まで通る船材、竜骨を備えていて、船体の下半分は水中に沈んで安定を計っている。「平底でないボートを造るから、材料代を出してくれるか」と、息子が真剣な顔をして申し出た。おいでなすったなと思い、果たしてできるのかと疑いながら承知した。そして、どれだけかかったのかちっとも知らないのだから、金は家内が渡していたのである。建造に取り掛ったのは、中学三年の夏休みであった。高校受験を前にして、親も子も呑気なことであった。

長さ二・七メートルの幅の狭い杉板というか棒を竜骨にし、そのほかはベニヤを張って、船長二・五メートル、中央部で大人がゆっくり腰を据えられるくらいの幅があった。だんだんボートの形をとってくると、息子の熱は上がった。建造場所は家の横手の軒下である。部落を通り抜けて浜へ出る細い通り道に面している。夏は海へ行く人が多いから、いやでも目につく。いろいろ感想を述べて行く者がある。ショックだったのは、近くで普請をしていた大工の親方が、休憩に浜へ行くとき、仕かけの船をしばらくながめていたが、帰りに、「あんたのとこの息子はなかなか熱心に造っているが、竜骨のある船は素人にはできない、というのが船大工の常識だよ」といったことだ。それを息子に伝えると、「とにかく水に浮かべるまではやってみる」と、決意は固い。

貸しボートの小型版のような船体ができると、次は塗料代も出してくれるか、ときた。ベニヤ板が露出していては安っぽい。舷側は白、吃水線から下は赤に塗った。出資者の顔を立てて、船名だけは私の意見を尋ねてくれた。「サンタルチア」、船籍はナポリ、綴りはこちらで示し、字体は任せた。色は、もちろん緑である。夏、真昼の前後二、三時間の、岸近くの水は、強い陽光のなかで鮮かな緑色に見えて、行ったこともない南イタリアの気分だ。白い舷側が映え、その水は澄んで赤い船底まで透けて見える。

親方の予言にもかかわらず、水はほとんど入らない。貸ボートは水をくみ出すためにひしゃくなどの道具を備えている。「サンタルチア」は技師の妹の金魚の絵がついたおもちゃのバケツを積んだが、使うのを忘れるくらいだった。オールは取り付け部が難しいので、両端にブレード用の板を固定した長いパドルをこしらえた。すすめられて乗ってみたか実に快適だった。夕凪ぎで波一つない状態になり、夕焼けを映している海面をスイスイと行った。

多少の波にも耐えることがわかって、息子は私の友人から船外エンジンを借りて来た。東京発動機製の三馬力であった。さすがにこのボートには重すぎて、船尾は深く沈んだが推進可能である。息子はわが浦の湾入の端に突き出た川尻まで微速で往復したが、機械は翌日返しに行った。

その代りに、今度は帆走を考えて、「ヨットにするよ」といっていたが、私は気にも留めずにいた。ボートが有名になったためだろう、助手に来る子ができた。下級生で付き合いはなかったというのに、好きでやって来たのだ。日ならずして、ヨットができたという知らせに浜へ出てみると、船は早くもそれらしき帆を張って、前記の川尻へ向かってユラユラと(あるかなきかの風だったので)よろめき出ていた。あとで聞くと、帆柱は竹、帆にはシーツを使ったという。

このように成功した「サソタールチア」をさまざまに楽しみ、さらに夏の残りを楽しむつもりであったのに、ある日、夜が明けてみると、船がない。造船所でもあった軒先へ上げていたのだが、そこは前にもいったように浜へ出る通り道である。よほど人の目をひいていたのであろう。近所の農家の主婦が、未明に稲田の水を見回りに行った帰りに、あぜ道でボートを積んだ手押し車を押した男と行き合い、見たような船だな、と思ったそうだ。それが唯一の情報であった。とすると、男は川の堤防に軽トラックかオート三輪を駐めておいて、手押し車を持って来たのだ。

サヌキの東部には船遊びのできるような川はないが、大小のため池がおびただしくある。息子は自転車で、近在の目ぼしい水辺を見て回った。私は五万分の一の地図を貸してやり、彼は二、三日かけたがむだだった。とうとう警察へ届けに行った。晩に「民主警察だなんていってるがだめだな」と憤慨している。民主警察というのは当時よく聞かされたことばである。警察のことをよく知っている友人に、笑い話としてこの話をすると、「警察は今いちばん忙しいところだ。子供の手製ボートなんかに取り合ってるひまはないよ」といった。しかし、「川や池を見回ったが、手がかりなし」という報告が息子にあったそうだ。

緑の海に白い船体を映えさせて、軽々と進むあの小艇は、あの夏と少年の息子を思い出させる夢である。盗まれるほどよくできていたというべきか。
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