金子光晴自伝(真珠湾攻撃)より

真珠湾攻撃を絶望視した人が何人もいたことに驚きます。これらの人達はヨーロッパや米国で暮らした経験があることから、如何に情報と世界レベルの常識が重要かということでしょう。

先の戦争が個人にどのような影響があったかは、文人の残したものによく現れています。私のような庶民には過ぎてしまったことは、思い出でしかありませんが。

追記:2014/1/12

今日の日経"日曜に考える"に記載された、パールハーバー急襲直後の作家などへの論評の一つが目を引きました。

追記: 2014/11/02

親父は竹中先生がどうのということを私に喋ったことがあります。今やその内容を全く覚えていませんが、親父の蔵書に「ある英語教師の思い出:竹中治郎」があり、それを読むと私が在校していた頃に青山学院の夜学で講義を持っていたそうです。覘いてみればよかったと思います。

追記: 2014/11/15

真珠湾攻撃は既に歴史になっているとも言えますが、当時の実情を後世に伝えることが本当の歴史教育でしょう。

追記: 2015/06/05

陳舜臣は大正13年生まれで親父の世代です。親父のことを思い出しました。

追記: 2015/08/27

戦争に良い悪いは無いという意見もありますが、他国からの侵略に対して座して死を待つのは良いことでしょうか?他国からの侵略には間髪を置かず反撃をするというのが私の信条です。

追記: 2015/09/05

南原繁氏も「人間の常識を超え」たと表現されているそうです。それほどのことをなぜしでかしたかをみんなで考え直すのが歴史教育だと思います。

追記:2018/7/21

この本は読んでないが、先の大戦を起こした軍部や天皇を非難する私には腹立たしい内容だろう。

金子光晴自伝(真珠湾攻撃)より 2013/4/24

金子光晴は著名な詩人とのことだが、私は全く知らなかった。彼と同時期の詩人として高村光太郎や室雄犀星などがいるが、金子光晴の詩が教科書に引用されていれば私もその名前くらい憶えていたかも知れない。その理由が、この本を読んで分かった。あまりにも破天荒だったから教科書編集者も掲載を避けたのだろう。彼は幼児期に金持ちの養子となり、戦前のある時期までは全く金のことを考えずに好き勝手ができた。あの時代に、二度もヨーロッパに渡り何年間も漫遊したことが本書の前半に書かれている。但し、二度目の漫遊は金に困ってからで、無一文で数年ヨーロッパを放浪している。様々な局面で現地にて資金調達し旅を続けたことは、彼の才能だろう。

親父は売れない詩人だったが、金子は親父より30歳年上で親父は全く接触は無かっただろう。親父達の詩人グループ"荒地"は、既知の詩人達とは全く交わらず活動をしていたそうだ。そもそも、当時荒地は誰からも注目されない若い詩人グループだった。さて、この本を読むと、戦前の金持ちの芸者遊びや遊郭通いがどういうものかよく分かる。幼児期からの性的行動をもあけすけに語っており、そこまで書くのかと思うこともあり、前半は少々気が滅入る記述が多い。そういう彼のオープンな性格も、教科書掲載から遠ざけられた原因だろう。

彼に共感できるところは、徹底的に先の戦争を嫌っていたことだ。当時の彼の詩集"鮫"について「『鮫』は禁制の書だったが、厚く偽装をこらしているので、ちょっとみては、検閲官にもわからなかった。鍵一つ与えれば、どの曳出しもすらすらあいて、内容がみんなわかってしまうのだが、幸い・・・」とのこと。勿論彼は、当時の多くの詩人と異なり兵を鼓舞するような詩を書いてなかった。

親父は大正の生まれだったが、先の戦争に関する金子の叙述に共感したのだろう以下に引き出し線を引いていた「戦争がすすむに従って、知人、友人達の意見のうえに、半分小馬鹿にしていた明治の国民教育が底力を見せてきだしたのに、僕は呆然とした。外来思想が全部根のない借りもので、いまふたたび、小学校で教えられた昔の単純な考えにもどって人々が、ふるさとにでもかえりついたようにほっとしている顔を眺めて、僕は、戸惑わざるをえなくなった。古い酋長たちの後裔に対し、戦争までに追い込む・・・」とある。熱し易く冷めやすい、かつ前後を考えない日本人を叙述している。我々のDNAには、このような資質があることを肝に銘じておくべきだ。彼は真珠湾攻撃のラジオ放送を聴いて「馬鹿野郎だ!」と叫んだとある。別の書で読んだことだが、画家の岡本太郎も同様のことを言っている。つまり、当時世界の状況を知っていた人は、真珠湾攻撃を地獄の門を開けたと感じたのだ!
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追記:今朝の日経朝刊"日曜に考える"より2014/1/12

今日は読みどころが多かった。三連休の中日でゆっくり新聞を読む人が多いことを鑑み、じっくりと編集されたのだろう。喜ぶべきか悲しむべきか、私は毎日が日曜日だが!さて、"熱風の日本史"のコラムに横光利一や小林秀男までもがパールハーバー急襲を礼賛したことと、最も気を引いたのが"留学先のフランスから帰ったばかりの岡本太郎は「ヘエー、そんなバカな!あーだめだ!もう日本はだめだ」と叫んだ"とのこと。彼のイメージは"芸術は爆発だ"と破天荒だが、米国の実力が分かっていたのだ。岡本太郎が総理大臣だったら、昭和天皇がオックスフォードやハーバードに留学されていれば歴史はどう変わったかと思う。ただ、皇太子時代に半年間ヨーロッパ公式訪問されておりヨーロッパ諸国の事情を見られてきたと思うが、そのことと開戦に関するお言葉は無い。歴史にIFは無く、後になってボヤくのは私のような小市民にすぎないが。ああ無駄な戦をしたものだ!

追記:「ある英語教師の思い出:竹中治郎」より 2014/11/02

竹中治郎氏は、明治学院の英語教師で、戦前に長崎高商を出てコロンビア大学で英語学のマスターディグリーを取ったとのこと。さて、その竹中氏が明治学院で教師をしていたときの思い出だが、…昭和十六年十二月八日チャペルでは無教会派の木山氏の講演の最中であった。この時日本航空隊の真珠湾攻撃、対米宣戦布告のニュースが伝えられた。講演が済むや矢野学院長は上記のニュースを学生一同に伝えられ緊張感が高まった。私は心の中でこれは大変なことになったと思った。宣戦布告となった以上負けては困るが、三年米国に住んで米国の物力を多少なりとも知っていた私は、果たして日本が米国に勝てるかという大きな疑問が心の中に残った。生徒主事としてそのようなことは心の中に思っても口には言えない。正直な先生の中には、「馬鹿なことをしたものだ。アメリカに勝てるものですか」と公言される人もいた。…とある。

同じページには、…はっきりとした日は覚えていないがアメリカの飛行機が突然東京を空襲して来た。初めての経験で皆のんびりして見物した。収録の写真はわれわれ高商部の教員が玄関に跳び出して、空襲してきた米機を眺めている光景である。しかし一般にはかなりのショックであった。…とあり上空の米機を眺める先生達の写真が掲載されている。この数年後、東京は焼け野原となるのである。戦前に米国に暮らした経験のある人の多くが対米開戦に疑問を持ったが、それ以上の情報を持っていた軍の中枢部はそう思わなかったのだから気が狂っていたとしか言いようが無い。今となってはどうとでも言えるが!

追記:氣賀健生先生へのインタビュー記事より 2014/11/15

長くお世話になった母校への証として毎年寄付(規定の最低額だが!)している。そういうことから校友会報が送られてくる。いつもは斜め読みだが、今回の青山学院校友会報No.16はじっくり読んだ。私が一年生の頃宗教部長だった氣賀健生先生の日米開戦時の想いでが記載されていたからだ。音楽の石丸泰郎先生は、軍部の指示に従わず憲兵隊につかまり終戦時は拘置所にいたとのこと。関谷光彦先生は、「諸君、後になって、この戦争を歴史家が正義の戦争ではないと評するだろう。政治家や軍人のいうことをまともに聞いてはいけない」と講義したとのこと。中学部生徒だった氣賀先生は、軍人が全校生に訓諭をしていたとき隠れてジイドを読んでいたら見つかり気絶するまで殴られ、軍事教官室で目が覚めると再び気絶するまでなぐられたそうだ。軟弱なイメージで受け取られがちな青山学院だが、気骨ある先生や生徒がいたことに安堵する。

追記:陳舜臣の自伝「道半ば」より 2015/06/05

陳舜臣の自伝「道半ば」に、真珠湾攻撃の日のことを書いているので引用する。「戦いはじまる」との章に、

…宣戦布告の日のことは、さすがによくおぼえている。全校の生徒が講堂に集められた。
 アメリカやイギリスと戦争するということが、なにを意味するか、考えただけでも大へんなことだとわかる。ワシントンやロンドンに攻め込むなどといったことは、考えられない。
 善戦して有利な講和にもちこむ。――と考えるのが精一杯であった。
 ある教授がこの日、教室で生徒にむかって、
 ――これは負け戦だから、諸君、からだを大切にせよ。諸君が本領を発揮するのは戦いが終わってからだ。
 といったことが、噂として流れた。この発言をきいた生徒たちは、その後、一人として口外しなかったという。その教授を庇うためであろう。公にされるとただではすまない時世だったのである。
 最近、同窓会の雑誌に、その教授のなまの声をきいた人の…

とある。勝てない戦いとは今となっては誰でも言えるが、教室で生徒にそう宣言した人がいたのだ。当時陳舜臣が通っていた大阪外国語学校は全校生715人だったそうだが、だれもそのことを口外しなかったことは立派である。

追記:茨木のり子の場合 2015/08/27

詩人茨木のり子は「20才のころ」(*)に記載されたインタビューで
 *:立花隆+東京大学教養学部立花ゼミ著 新潮文庫

…今の時点で振り返って思うことはね、戦争中にはっきりものの見えた人が、ほんのわずか、一握りでしたけど、いました。この戦争がおかしいっていうことが見えた人。私の身近では、それが金子光晴さん。それから山本安英さんです。
*中略*
 敗戦になったときに一般の人たちは軍部にだまされた、とか、そういう見方しかしませんでしたね。ということは、戦後もやはりものが見えなかったということだと思うんです。戦争中にものが見えなかった人は、戦後もやっぱりものが見えなかった。

 山本さんなんかは、金子さんもそうですけど、ぱあっと豹変した人間を実に苦々しく見ていた、と思うんです。詩人でも、三好達治なんか、あんな抒情的なきれいな詩を書いていた人が、戦意高揚のほんとにひどい詩を書いているんです。

 だから私なんかも、戦後ものがみえなかったなあって感じはものすごく強いです…

とある。茨木のり子の知人では戦争反対論者はたった二人だったのだ。ただ、三好達治を悪くいうことは当時の状況を考えれば少々酷と思う。彼にも生活があり家族もあっただろう。それにしても”積極的に”戦意高揚を詩で訴えることはどうかと思う。こういうことにいつも、私だったらどうだろうと考え込んでしまう。

追記:回想の南原繁から 2015/09/05

斎藤勇氏(*1)が「南原繁氏の追想録」に記載した「毅然たる政治学者の和歌」から、
 *1:東京大学名誉教授

…大戦中に南原さんが近衛内閣に対して不満(*1)に堪えなかった、またヒットラーやムッソリーニに対して憤慨し、そして日本開戦(*2)を「人間の常識を超え」た事件として「沈痛感」におそわれたことは、歌集『形相』にしるされている。
 この歌集は南原繁という人物がいかに堅く信ずるところに立って毅然たる態度を堅持し続けるヘロイック・マインドであるかを明らかにする…
 *1:憤懣の誤植?
 *2:日米開戦の誤植?

とある。日米開戦を「人間の常識を超え」と表現していることに、戦前ドイツで政治学を研究した南原氏の世界レベルの常識が伺われる。なお、私は『形相』を読んでない。恥ずかしいことだが和歌を読みとる能力は私に無い。

追記:日経書評より 2018/7/21

今日の日経書評では「経済学者たちの日米開戦 牧野邦昭著」が取り上げられている。ここには「確実な敗北」および「万一の僥倖(ぎょうこう(*))」として、絶対負けだが、万一の際に勝てると陸軍特務機関(秋丸次朗中佐と経済学者)が分析したとある。
*:私事だが、僥倖を行幸と取り違え、なぜ行幸と思って調べたら「僥倖:偶然に得るしあわせ」とある。つくづく我が身の無教養を恥じる。

さて、その万一だが
1.独ソ戦は短期間でドイツが勝利
2.独英戦は短期間でドイツが勝利
3.日本は南方の資源を確保し持久戦に持ち込む
4.アメリカが戦争継続を断念
である。

ご存知のように上記の万一はすべて起きなく、「万一の僥倖」が訪れることはなかった。我が国の第二次大戦の死者数は軍人民間人を合わせて310万とある。つくづく万一の僥倖を期待した愚将どもと、遅すぎた敗戦の詔にいらつく。今だと小学生でも間違わない選択問題である。なんであのアメリカ人が降服するのだ?どのようにニューヨークを占領するのだ?上記の仮定の一つでも成立してから真珠湾に出撃すれば何百万人もの人が死ぬことはなかった。
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