安岡章太郎と戦争

軍隊の理不尽な話を聞くと、本当に腹が立ってきます。いい歳になっているのですが、成長してないのでしょうか?

●安岡章太郎と戦争 2014/06/24

安岡章太郎は大正9年(1920年)生まれで、亡くなった親父と同年齢だ。ただそれだけで親近感が湧いてくるのは私固有の個人的な感覚だろうか。"別冊新評:安岡章太郎の世界"には多くを割いて戦争が記載されている。彼らの世代の健康な男は徴兵を逃れることは出来ず、それが彼らの性格形成に深くかかわったことは否めない。1931年満州事変で始まり1945年9月2日降伏文書調印で終わった戦争の最中に彼らの青春時代も終わった。さて、この本の"戦争の中の二人の証人"には安岡と江崎誠致と記者(*)の三人の対談が掲載されている。彼ら自身の従軍経験であり、大変興味深い内容である。是非大勢の人に読んでもらいたいと思うが、著作権上全文引用することもできないので私なりに気になったことを記載しておく。
 *:この記者は早稲田で教練をサボっていたから、検定合格証明書を持ってなかったとのこと。それにより幹部候補生の試験を受けずに済んだそうだ。

彼ら三人共に軍隊嫌いだったから散々に軍隊の悪口を述べ、実経験をもとに話すから緊迫感がある。安岡が述べるくだり「…これは友だちの話だけど東部六部隊に入って、前橋の予備士官学校を出て、見習い士官のままでルソン島へ行ったらすぐ小隊長を命ぜられて、山の中の部隊まで二人で追跡していったわけだ。ところがその途中でマラリヤにかかって、一人は向こうに着いたとたんに寝ちゃって小隊長にも任命されなかった。彼のほうは一応小隊長になった。機関銃中隊の小隊長だ。谷の両側に陣地をつくって機関銃座を二つこしらえて待つことにしたら、敵がやってくる直前になってマラリヤが出た。それで部下の商大出の軍曹に指揮をまかせて、自分は穴の中でがたがたふるえて寝ていた。その間に敵が攻めてきて、迫撃砲で機関銃二つともやられてどうしようもないというので、軍曹は小隊を全部山の奥に逃がしたわけだ。そしたら敵前逃亡というのでその軍曹は銃殺、僕の友達の小隊長は引責自決だ。そのあと三日たって終戦になっちゃった。実にいやだな、そういうことは。そしてそのときの大隊長、生きて帰ってきたんだな。…」は、軍隊とくに日本軍の不条理さが明に示されている。このようなことが民主主義国の米軍で行われるはずもなく、もしやったとすればこの大隊長は兵士に撃ち殺されただろう。

軍隊における理不尽な話は、私が子供の頃見た戦争告発物の映画では嫌というほど出てきた。戦争そのものも勿論悲惨だが、軍隊という集団内で起きる内向きの悲惨な出来事もこれでもかというほど出てきた。ビルマの竪琴や戦場に架ける橋などの日本軍の残酷なシーンを今も思い出す。さりとて、当時の状況を考えれば心ある人にも誰にもどうすることも出来なかっただろう。片や米軍は、既に述べたように日本軍のような陰湿かつ理不尽なことは一般的ではなかったはずだ。サンダース軍曹の出てくる"コンバット"やマーロン・ブランドの"地獄の黙示録"などを見る限りは、日本軍のような陰湿な部下いじめなどは無かった。もっとも、"コンバット"も"地獄の黙示録"も告発物ではなかったが!

さて、終戦を待ってましたとばかり安岡などの第三の新人達が出現したが、今や彼らも消え、彼らの厭戦小説も読まれなくなっている。それでも、一冊は読めと言われれば、大岡昇平の"俘虜記"または"野火"を薦める。悲惨な戦争の最前線の実態と人間の怖さが大岡の経験を踏まえて書かれていることから迫力がある。しかし、いつの日か"昭和は遠くなりにけり"となり、我が国の戦争経験も歴史となっていくのだろう。再び他国と戦火を交えないよう望むばかりだ。但し、私は戦争に強く反対するが、他国からの侵略に対しては直ちに痛烈な反撃を求める。たった今も戦争状態の国があるが、原因や状況を聞けば世の中は理不尽の固まりであることが理解できよう。全ての原因は人の心の奥底から発生する。それが邪悪かどうかが問題だ。
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