機械翻訳システム黎明期

長い会社生活でしたが、機械翻訳システムのセールスマンをやっていた頃の面白い経験です。職務経験としてここに書けないような話はいくつもありますが、いつか全てを書きたいと思います。
●機械翻訳システム黎明期 2015/08/18

1年程前に友人から紹介された鈴木肇氏(JA1AEA)が戦後アマチュア無線が再開された頃米軍基地からアマチュア無線用部品を調達する話が自叙伝に記述されているのを読み、私も何度か横田基地に出入りしたことを思い出した。1990年頃私は、富士通の機械翻訳システムのセールスマンをしており、富士通が米軍に販売したシステムの使い方を教える為に横田基地に出入りしていた。その半年程前、その昔私の上司だった山田桂さんは無線事業部長をされており、その山田さんから電話があり『米軍の将校が富士通の機械翻訳システムの性能をチェックしたいというので、和文英訳の結果が欲しい』とのこと。早速、米軍から与えられた和文を英訳し返送した。しばらくして、米軍の担当者から『翻訳結果に手を加えてないか?』との電話があり『勿論無い!』と返事した。

その時の機械翻訳システムはGシリーズというワークステーションを使った富士通の独自システムで、当時は富士通も日電も、勿論IBMも独自のシステムを持っており、ハードウェアからOSまで全て独自システムだった。IBMやDECやSUNが当り前の米軍でも、機械翻訳システムでは我が社のGシリーズを購入せざるを得なかったのだ。勿論米軍は、日本IBMは勿論、日電、日立、東芝など当時の機械翻訳システムを全てチェックし、富士通のシステムに決定したようだ。第三者が査定して富士通の機械翻訳システムの性能が最も良かったことは富士通に働く私には大変嬉しいできごとだった。ただし、残念なことに私は機械翻訳システムそのものの開発に全く係わって無かったが!

機械翻訳には、高性能のCPUと大容量のメモリなどが要求される。その為、当時のPCでは全く歯が立たなかった。その状況は、機械翻訳システムがメインフレームからやっとワークステーションに降りてきたところで素人が目にすることはなかった。つまり、当時のワークステーションは現在のPCに近づいた状態だったが、現在のPCは単一CPUの性能を比較すれば当時のメインフレームを軽く超えている。それほどに技術の進歩は激しい。

さてその後、納入したシステムの使い方を教える為に米軍横田基地の翻訳部門に通うことになった。今となるとどの駅からどう行ったか思い出せない、福生駅だったか拝島駅からだと思うが、タクシーで行った。メインゲートから入ると、ゲートまで翻訳部門の人が迎えにきてくれた。システムが設定された部屋へ行ったが、既に数日前にシステムエンジニアがハードウェアの設定からOSや機械翻訳システムのインストールまで済ませていた。そこで働いていた翻訳者達(*)に機械翻訳システムの使い方を教えることになった。この部門は全員米国籍を持つ日本語と英語のバイリンガルで固められており、私の教習は日本語だった。またマニュアルも日本語だった。
*:彼らは自分たちの仕事の一部が機械翻訳システムに奪われるかもしれないという一抹の不安を抱えていたかも知れない。私に対する態度には少々そっけないものがあった。私はと言えば、"日米友好、安保賛成、Viva米軍"というスタンスだった!

週に一度くらい二か月ほど訪れたが、何回目かのこと件の部門長の白人将校が検収とのことでシステムを見に来た。彼は機械翻訳されたおかしい直訳英文を読んで、少々辛口のコメントを言った。当時も今も機械が翻訳したものは直訳で、一流の翻訳者には全く歯が立たない。それで私は彼に

This machine is not perfect,
but sometimes speaks better than I.  
Is this better than nothing?

と言った。すると彼はニタっと笑って、受け入れ検収が終わってしまった!

その後も、システムの使い方を教える為に何度も横田基地に通ったが、検収後は翻訳部門の人たちからの待遇がガクンと上がった。それまで彼らは私のことを単なる営業マンで英語はできないと思っていたようだが、つまらないジョークレベルの英語だったら喋れることに大変驚いたようだ。この部門の翻訳者たちからは、私の学歴とかどこで英語を習得したかなど散々聞かれた。そういうこともあり、その後は一緒にコーヒーブレイクしたり、彼らが交替で駅まで車で送ってくれるVIP待遇になった!芸は身を助くを地でいった経験だった。

米軍の翻訳部門は勿論諜報機関の一部門であり日本の情報をペンタゴンに送る使命を持っているのだろうが、私がチラっと見た範囲では新聞や週刊誌や雑誌などが沢山転がっていて、それらから重要と判断した情報を抽出し翻訳していたようだ。ペンタゴンでは、世界中から送り込まれた大量の翻訳された文書を分析しているのだろう。我が大日本帝国では先の大戦で英語を敵性言語として排除したが、かたや敵国の米国ではハーバードやミシガン大などでよりいっそう日本語研究に努めたことが思い浮かぶ。"敵を知り己を知れば百戦危うからず"と習った!嗚呼、なぜパールハーバーを攻撃した。
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