"ライチョウ ひな誕生"から

メモというか回想というか、日記レベルのことがらです。思い出したときに書くという習慣に起因します。
●"ライチョウ ひな誕生"から 2017/6/19

日経朝刊に上記の記事、ライチョウのひなが人口繁殖で2羽ふ化したとのこと。実はたった一度だがライチョウ一家が私の目の前を横切ったことがある。ひなは数羽いたが、全く人を怖がるような様子もなく親鳥の後を追いあたふたと横切って行った。栂池高原から白馬岳を目指して真夏の晴天下、両側が草原の登山道で何人かの登山者が立ち止まって「ライチョウがいますよ、脅かさないで」と言っていた。それだけのことだったが、なんとなく未だに忘れられないでいる。なお同行のDuncanは頂上まで行ったが、私は途中の草原でくたばって彼が帰ってくるまで寝転んで待っていた。なさけない!

上記は、1990年頃の事だが、同僚Duncanと二人で栂池高原の大学の山小屋に遊びに行った際のことである。思い返してみると外国人と二人で旅行したのは最初で最後である。Duncanはアメリカ人でカリフォルニア大学サンタバーバラ校を卒業し、日本に遊び半分と嫁探しで来ていた。手っ取り早い職業として翻訳会社に就職し、当時私が働いていた富士通ドキュメントサービスという会社で我々が書いた寝ぼけた英文をブラシュアップしていた。彼がどこで日本語を勉強したのかは聞かなかったが、普通に日本で生活していくに十分な言葉を喋り読めた。

山小屋には十数人泊まっていたがその中に英文科の女性がいて、彼は彼女を大変気に入り、仲を取り次いでくれるように頼まれた。私は彼女とそれまでに何度かこの山小屋で会っていたことから親しく話せる関係で、一方彼は性格が温和で信頼できる奴だったので、断る理由は無かった。それで彼女に電話したところ、残念なことにその場で断られてしまった。彼女は誰にでも好かれる人だったから恐らくすでに恋人がいたのだろう!それで彼に結果を報告し、諦めてもらった。そうこうするうちに、彼は同じ会社に勤める英語の堪能な若くて美人の日本人女性と結婚しアメリカに連れ帰ってしまった。

彼とはその後音信不通だが、ライチョウの記事から遠い昔を思い出した。当時会社にはDuncanと同様に我々と同年代のBryanという若い男がおり、二人は仲が良かった。英国人のBryanはケンブリッジ大学の数学科を出た秀才だが、所謂奇人変人といえよう。変人と称される私が変人と指摘するのだから、相当だと言えよう。仕事中彼は時々おかしな翻訳を見つけてキッキッキッと笑っていた。彼の天才的なところは殆どの漢字を全て書けたことである。実は中国語が堪能とのことだった。大学を卒業するまで天才に出会ったことは無かったが、会社勤めで何人かの天才に遭遇し「絶対勝てない」ということを強く認識した。イノベーションは努力だけでなく天才の存在が不可欠である。並みの人何万人が取りかかっても出来なかったことを一人の天才が実現してきた歴史がある。はてさて彼は今どこで何をしているのやら?
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