"美酒すこし:中桐文子著"を読んで

親爺は中桐が好きだったが、たった一つ酒癖の悪いことが嫌だったそうだ。中桐が亡くなる前に親爺は彼に何度か会っているが、必ずしらふの時に話していたようだ。
●”美酒すこし:中桐文子著”を読んで 2012/07/12

なぜこの人は中桐雅夫と最後まで一緒にいたのか、娘の泰子さんのためとご自身のプライドからだと思う。彼女の能力からすれば離婚し自立することはたやすいことだが、それは敗北だったのだろう。とにかく戦い続けた夫婦生活・・・でなく同居生活が語られている。「1983年夏毎日のように私はホロヴィッツの弾くシューマンを聴きつづけていた。「クライスレリアーナ」の終曲である。不吉な予感に落ち着かなかったのだ。・・・」と中桐雅夫が亡くなった時のことを述べている。

全曲を聴いてみたが、素人の私には全くメロディーがつかめない曲である。聴き終わった後、主旋律をハミングすることができないのだ。私にとってシューマンはトロイメライだろう。子供の頃、夕方になると近くの紡績工場から終業を知らせるチャイムとしてこの曲が毎日流れていた。哀愁をそそる分かりやすい旋律が子供心にも心地よいものだった。しかしピアニストである文子氏には難解な「クライスレリアーナ」がその時にしっくりきたのだろう。

この本には、戦前、戦中、そして終戦後の社会が中桐夫妻を取り巻く状況とともに記述されている。夫婦とその周りの人間関係がこの本の主題であるが、終戦直後に生まれた私にはそれ以外の状況や、特に中桐雅夫と詩を通して親しくしていた亡父のことが想像できるから一気に読んでしまった。親父が元気だった頃、「中桐が云々」という話は何度も聞かされていた。奥様がピアニストだということも聞いていたが、この本に記述されていることの殆どは文子氏からこの本を謹呈されるまで親爺は知らなかったはずだ。

全ての夫婦にそれぞれの歴史があるが、文子氏のように公開するには勇気が必要だろう。当たり障りの無い"私の履歴書"的なものだったら何の問題もないが、この類のものは暴露的になってしまうことが多いからだ。私も自分を取り巻く気になる出来事をダラダラと書き留めているが、公表をためらうことも多々ある。しかし、その時々に書いておかなければ印象が薄まり、忘れてしまうこともあるからだ。亡くなった親爺は、欠かさず日記を書いており、我々遺族の大切な形見である。ただ、私の日記やエッセーは誰が読むのだろうか?
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