クラフチェンコ事件 2013/03/30

終戦直後に鋭い切り口で世相を述べる鮎川には、後年の名エッセーイストの片鱗が伺われる。
●クラフチェンコ事件 2013/03/30

鮎川信夫が1951荒地詩集に書いた詩論に、詩とは少々趣を異にする内容が記載されている。「愛国心」と「売国奴」という切り口で、終戦直後という時代背景にも係わらず的確な判断がなされていることに驚いた。当時の混乱した中、つまり正確な情報が全く無い中(*)でこれだけの判断力を持ち合わせていたことに鮎川信夫が実に優秀な情報分析力を持つ人間であったことが分かり、後年エッセーイストとしても名を成した片鱗がうかがわれる。
 *:この原稿は1948年には書かれていたとのこと

これを読んで思ったことは、誰に対してもその時点で心底本音を語れば後になって恥ずかしい思いをしないですむことだ。世の中が落ち着き過去の情報が開示され皆が平静を保ちながら議論しあえようになった時に、本物が何だったのかはっきりとする。詩論と全く異なる自然科学でさえも、例えば私の小学校時代には遺伝子論が二つあって、ルイセンコの法則とメンデルの法則がまじめに理科の授業で教えられていた。なお、その頃終戦後の混乱はかなり収まり食料事情は好転しつつあった。但し、低学年の頃はくさい麦飯を食わされており、当時は我が家の犬の食事と同様のものを食っていた。コロという名の頭の良い犬だったが、麦飯は美味くないらしく残していることがよくあった。それでも、食うまで次の飯が出ないことから、いつの間にか彼の胃袋に収まっているのだった。少々脈絡がずれたので元に戻る!

ところで私の世代の多くの人はクラフチェンコ事件を知らないだろう。勿論私も知らなかった。Webで調べても数点しかヒットしないが、その概要はソ連共産党員だったクラフチェンコが1943年にアメリカに亡命し、終戦直後1946年に強制収容所の存在、集団農場の失敗によるウクライナ農民の飢餓などを暴露出版した。勿論大騒ぎとなりフランスでは嘘か本当かという裁判まで行われた。悲惨なことにソ連に残った彼の両親は収容所送りとなり、彼も1966年に米国で暗殺された。今日では強制収容所の存在や国有化農場失敗による悲劇は詳細に報告されているが、鮎川がこのエッセーを書いた時点では事実かどうかは分からない状態だった。むしろソ連の共産主義はますます繁栄を極めているという虚偽の宣伝が行き渡っていた。そういう状況で鮎川の論調は「・・・思想的には戦争中とあまり違わぬ日本的愛国主義者すら現れかねない有様と・・・こうした情勢から愛国心という出口のない、自己奴隷的な日本的精神風土へ逆行しないかということである・・・」つまり資本主義共産主義と右往左往するな、あらゆるしがらみを断ち切って自分の頭でよく考えろと言っているのだ。

終戦直後の詩論の中で上記の主張が展開されることは、鮎川が後年の名エッセーイストたる所以だろう。このコラムには日本人論も展開され、老境に入った私が今読んでも、そのとおりだと思う。むしろ、それは違うだろうというところが無いのだ。私はますます老化が進行し死も射程距離に入ったが、鮎川や親父など大正生まれの人々は物心ついた時から戦争と疫病という死がすぐそばにあったことから、あらゆる事柄にセンシティブに、一方逆に自己不感症にならざるを得なかったのだろう。少々飛躍するが、全ての独裁国家にあっては、心ある人々の決起を願わざるを得ない。
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