木原孝一全詩集を読んで

木原は荒地の呑んだくれ派だったようです。木原のことも親父は何度か私に話しましたが、内容は全く記憶にありません!何だったのだろうか?

追記:2014/05/28
これを読んで、木原は私が子供の頃わが家で一泊したことが分かりました。

追記:2014/06/04
木原の性格の良さがこの逸話に出ていると思います。いずれも酒がからむところは木原たる所以でしょう。

追記:2015/07/13
あれ!という感じで聞いた話が出現したという感覚です。

●木原孝一全詩集を読んで       2013/02/27

この本を書棚から取り出し開いてみると、「木原孝一全詩集刊行会」から親父宛のNo.125の依頼状が入っていた。5000円の本であるが、昭和57年の5000円は相当の価値がある。それでもこれを購入するひとは何百人かはいたということだ。今Webでサーチすると2500円から4725円で販売されている。ところで親父は木原孝一のことを「木原が・・・、木原が・・・」と何度か私に話した。荒地のメンバーの名前は親父との会話で時々出て来たのだが、それがどういう局面だったか思い出せないことが殆どだ。本書によると木原孝一の戦後は詩の出版に掛かりっきりで、戦中は東南アジアや硫黄島に送り込まれ厳しい軍隊生活を過ごしたそうだ。米軍総攻撃の直前病気になり間一髪硫黄島から赤十字マークをつけた最後の病院船で生還、まさに人生万事塞翁が馬である。

軍隊での経験、特に硫黄島がトラウマになっていたようで、最後に硫黄島を題材にした小説を書くことが望みだったそうだ。着手して直ぐに亡くなっている。恐らく酒の飲みすぎだろう。この本の最後の章は、荒地の溜まり場だった神田昭森社(昭文社ではない)での出来事が詳述されている。戦争を潜り抜けた詩人達が50年代初頭を過ごす様子がよく描かれている。その描画は、とにかく酒を飲む場面が多く、せっかく戦争を耐え抜いたのに、酒で早世してしまうのである。ストレスが酒を招き、その酒が死期を早めるというのは、今の私にも実によく分かる。

そしてこの本の最後の文章は、「そうそう、思い出した。その横丁のまがりかどに、”美少年”という酒を飲ませる居酒屋があった。」という酒好きの木原孝一を彷彿とさせるものである。実はつい先ごろまで私も美少年を愛飲していた。近くにOKストアという安売りスーパーがあって、そこに並ぶ比較的安くて品質(私にとって飲みやすく、悪酔いせずだが、必須条件として防腐剤無添加の純米酒)の良いものの中から一升瓶を何本も飲み比べた。その結果、美少年に到達したのだ。熊本の酒だったが、ある時汚染米を使ったことがバレて倒産した。それまで日本酒はずっと美少年だったので、10年以上飲み続けたことになる。今でもあの味を覚えていて、似た味と品質とコストの酒を探しているが未だ発見できない。日本酒もワインも繊細な味がそのブランドを形成するが、あの味を求め、当時の杜氏を集め"美少女"というブランドで酒造会社を設立するか?

追記:追悼号より 2014/05/28

書庫の雑誌を読み返していたら"架橋 終刊号 木原孝一追悼号"に親父がエッセーを書いていた。"元気な木原 病気の木原"との標題で、中桐雅夫が創刊した詩誌LUNAの読者の近況欄で木原を知り、その後昭和29年に荒地の仲間と十年ぶりに東京で会った際に初めて木原と会ったことなどを記述している。その数年後、香川県の高校国語研究会の講師として木原が来た際に当家に泊まったそうだ。その時のことを「まだ家も暮らしも不自由なときだった。病院用鉄製ベッドにわらマットを敷いたものを小学生だった息子が使っていた。それをあけるから寝てくれないかというと、勘違いをした木原は「よしよし」と上きげんで下着になると、隣の部屋で別のフトンで寝ていた息子の横にはいりかけた。後年まで息子は『ぼくと寝そうになった詩人』と木原のことをいっていた。」とある。当時、鮎川信夫と田村隆一と木原がわが家に泊まったが、私はこのエッセーを読むまで田村と木原を同一視していた。二人ともたっぷりと酒を飲んでおり、酩酊状態だったからだ。まだまだ戦後のドサクサによる貧困がわが家の家計にも影響を与えていた頃のことだ。白米が無い時には、麦飯を食っていたことを覚えている。そのような状況で、詩集を出そうという人がいたことに驚く。

追記:再び追悼号より 2014/06/04

TBSディレクターで詩人だった吉沢比呂志氏が、この本の最後に木原とのエピソードを記述している。東郷青児邸で木原がウィスキーのストレートを求め、その際に吉沢氏が机の下で木原の足を蹴っ飛ばしたが全く通用せず、ついに酔っ払って「あんたの絵は駄目だ!…」と言ったとのこと。さすがに東郷氏、木原を軽くあしらったそうだ!良かった!五味康祐とのインタビューでは、千鶴子夫人御手製のラーメンをすすりながら「あんたの小説は駄目だ!」とやってしまい、ここからの記述が良い「<またやった!>思わず顔を伏せた僕は上目使いに、おそるおそる五味先生の表情を伺った。先生は顔色一つ変えなかった」…五味康祐も最近の自身の小説は駄目だと思っており、リルケが好きで「マルテの手記」のような作品を書きたいとの話(*)が続く、最後に初対面の二人は互いに涙をながしながら手を握りしめたそうだ。
 *:緊迫感もあり楽しくなる記述なので全文引用したかったが、興味ある方は"架橋"を参照されたい。

追記:五味康祐とマルテの手記 2015/07/13

昨夜、別冊文芸春秋132号に五味康祐が芥川賞を取った時の経緯を書いていたことが分かった。そこには「…生まれて初めて物にした時代小説だった。ひたすら鴎外の歴史物を文章の底本にした。『喪神』を書く以前、私はライナー・マリア・リルケに心酔し、リルケの『マルテの手記』のようなストーリのない、しかも『マルテの手記』には及びもつかぬ観念的な…」とあり、上記の記述と内容が符合する。ところで私はまだマルテの手記を読んでない!あれこれと読んでいるうちに、読まなければならないものが増え、既にオーバーフローしている。一方、ビジネスは低調で、技術系の雑誌を漁りながら新手を考えている。
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