詩の暗さ(鮎川信夫・トーマスマン)

戦前のある時期に、たかだか十数人の趣味のグループの出来事だが、それぞれに語りきれない程の歴史の重みが感じられる。

追記:2016/4/28

中桐雅夫の説によると、わかる人にはわかるとのことですが、普通は最低限の訓練が必要とのことです。もちろん私には訓練が必要ですが、時すでに遅しですね。

詩の暗さ (鮎川信夫・トーマスマン)  2011/03/21

1951荒地詩集では鮎川信夫が荒地派詩人の詩の暗さについて言及している。「僕たちが書いてきた詩の暗さについては、十年も前からいろいろな人に指摘されつづけてきた・・・」つまり戦前から暗い暗いと評価されていたそうだ。これに彼は反論することなく「その詩人の歴史と全生活が投影されているから」だと述べている。さらに段落を変えて、「”幻滅とは健全性への一段階であって、これを踏み越えることによって新しい真理と信念に到達することができる”という確信を僕たちはいつも持ち続けてきた・・・」このように彼は戦争への積極的な介在を否定し、ただ消極的に命令による一兵卒として受け入れたのである。

学徒出陣の大卒粗製濫造将校として部下を死に追いやることは彼にはとても出来なかったのだ。荒地の詩人の多くが戦場に駆り出されたが、全員消極的な兵だったようだ。そのせいかどうかは分からないが、戦闘による死亡以前に戦病死や病気による帰還が多かった。森川義信は一兵卒としてインパール作戦に駆り出されたが、現地野戦病院にて死亡。彼のみが戦死だったのだ。他の出征者、鮎川信夫、黒田三郎、木原孝一などは全員終戦前に病気で内地へ帰還した。木原は硫黄島最後の病院船で帰還し玉砕を免れた。最も元気だった田村隆一は琵琶湖のほとりで本土決戦のため待機していたそうだ。なお長命だった親父は兵隊検査不合格。

荒地の詩人達は英語の達者な人が多くそれなりの教養もあったことから、米国に勝てると思った人はいなかったようだ。親父は明治学院で米国人の宣教師などから英語を習っていたことから、米国との開戦には生来暗い人なのにさらに落ち込んだとのこと。卒業後名古屋の小さい貿易商社に勤め米国向けのLC送付や電文作成などをしていたが、海軍がパールハーバを急襲したことで会社は一気に倒産、帰省。仕事もなくブラブラし、家の側を流れる湊川でハゼ釣りをしていたら母校の旧制中学から英語教師の仕事が舞い込んできたそうだ。この時のことを親父は『餌の先になんだかエンジェルフィッシュのようなものが泳いでいると思ったんだ!』と言っていた。私はまだエンジェルフィッシュに出くわしてないが、そろそろ食いついてくるのではないかと時々事務所際の港に釣り糸を垂れている。今のところ釣れるのはベラや小鯵ばかりで、その気配はない。

本論に戻ると、鮎川信夫は「僕たちが戦前に於いてすでに戦後的であったと・・・」と述べ、第一次大戦後のヨーロッパ文学の影響を強く受けていたからとのことである。トーマスマンの"魔の山"は荒地の詩人達が必ず読んだ小説だったのは、こういうことだったのだ。そして第二次大戦が始まり、荒地の主要メンバーは東南アジアの最前線に放り出されることになった。小さい詩人グループの私的な状況においてさえも、実に歴史は繰り返されていたのだ。この段落の後に、いかに書くか何を書くかなど詩の技法を述べているが、私には出来ない。詩とは何かを語るということだが、残念ながら私のレベルでは全く歯が立たないのだ。親父の詩を読んでも、日記的な理解はできるが何を言いたいのか全く分からないことがはがゆい。
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追記:中桐雅夫が詩の理解に必要な要素を述べていた 2016/4/28

荒地1953の「現代詩人論」という命題の座談会で鮎川、中桐、田村、高橋が当時存命中の有名詩人を評価している。その中で中桐が述べた詩の理解に必要な技量である。

…深尾須磨子が先日の朝日新聞に書いていたがね、ある出版社員が「私は大学を出たが、近頃の詩はわからん」といっているのをとりあげて、いかにももっともだといっているんだ。あきれたね。大学出たってピアノのわからんやつにはわからんし、十二、三の子供でもわかるものにはわかるんだ。大体、詩を読んで楽しむには、それだけの訓練がいるんだ。ただで入場しようと思ったって、それは無理だ。人によって違うが、多かれ少なかれの訓練、入場料がいるんだよ。…

とのことである。こう書かれてしまうと、深尾須磨子氏(*)もかた無しである。もっともこういう私も深尾須磨子氏を知らなかったが!
 *:与謝野晶子に師事し、大正時代にフランスに渡り、ムッソリーニに心酔するなど私など庶民からすれば想像外の人である。与謝野晶子に師事しながら、戦前は右翼、戦後は左翼と中桐にすればもっとも嫌なタイプだったのだろう?
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