牟礼慶子と鮎川信夫

親父の書棚に牟礼慶子の詩集が何冊かあるが、詩にうとい私は読んでない。このエッセーには親父のことも出ていたので興味深く読んだ。
●牟礼慶子と鮎川信夫 2011/09/11

牟礼慶子(*)が書いた「鮎川信夫からの贈りもの」を読んだ。何箇所かに親父のことが出てくるが、脈絡に関係ない。主たる内容は、鮎川と森川義信との関係を軸に鮎川の人となりが叙述されている。鮎川信夫は私が幼稚園の頃に我が家に一泊した。おぼろげな記憶だと、翌朝防波堤に座って海を見ながらたたずんでいるところに私が親父の下駄をはいてカラカラと走りながら"朝飯だ〜"と伝えにいったことを覚えている。後日、鮎川は親父に「お前と似つかわない息子だな」と言ったそうだ。夏だったのでパンツ一丁で大きい下駄を履いて幼児が大声で"朝飯だ〜"と駆けてくるのだからそれは圧巻だったろう。いつも憂鬱そうな顔をしていた親父と野生児そのものの当時の私は全く正反対だった。母の鮎川に対する思い出は、我が家はとても狭い家なので寝る場所が無く、私のベッドに寝てもらったがとても背の高い人で足が出ていたそうだ。
 *: 詩人だが、職業は中学の先生だった模様

さて、この本にはトーマス・マンとリルケが頻出する。鮎川らは旧制中学の頃からこれらに傾倒していたようで、森川とのやり取りにその深い浸透度が分かる。私にとってトーマス・マンは教養課程のドイツ語のサイドリーダ「夏休みのドイツ旅行」に初めて出現した。トーマス・マンが彼の奥さんと戦後のドイツに戻ってきて感傷にひたるという叙述だった。大学1年生の夏休みにこのサイドリーダを暗記したことから簡単な会話ができるレベルになった。一年生の初秋だったと思うが、渋谷の百軒店でベロベロに酔っ払った二人のドイツ人が駅と逆方向にあの坂道を上がっていたので"Wo  fahren Sie?"(*)と尋ねたところ、"fahrenでなくgehenだ"と流暢な日本語で返事が返ってきた!当時の私のドイツ語のレベルはこの程度だった!実戦経験なく棒暗記だったから、知っている文章の羅列だった。蛇足だが!さて、なぜその脈絡でトーマス・マンが出てきたのか牟礼慶子の本を読んでやっと理解できた。
 *: fahrenは車で行くこと、gehenとは歩いていくこと。

トーマス・マンはドイツ人で、ヒットラーを嫌ってアメリカに逃げたが、ヒットラーに対する嫌悪はともかく戦争行為そのものを否定していた。代表作「魔の山」ではトーマス・マンの心情が如実に伺える。私にとって「夏休みのドイツ旅行」は単に第二外国語のサイドリーダだったが、著者は反戦のスローガンを最後のパラグラフにさりげなく入れたのだろう。そのようなことは無教養の私に分かろうはずもなかった。なお、この本にはトーマス・マン夫妻が終戦直後のシュッツトガルトの瓦礫の上で撮影した写真も載っていた。

鮎川は単なる反戦論者でなく、とにかく人を殺したくなかったようだ。大卒の即席将校として人殺しを率先して行うことはとても受け入れられなかったのだろう。親父も軍事教練が嫌で、軍人が大嫌い(*)だと言っていた。この脈絡でトーマス・マンが効いてくるのだ。鮎川だけでなく全ての荒地の詩人は、左翼でもなく、右翼でもなく、教条主義的平和論者でもなく、彼らのたましいが詩人だったと思う。詩人とは高貴な精神構造を持ちそれを短い文章で表現できる人だと私は勝手に定義している。但し、高貴な精神構造とは別に、生活破綻的状況があった人もいたようだが!
 *: 攻撃されても座して死を待てとは決して言わなかった。もし親父が生きていれば、「尖閣諸島が占拠されれば直ちに自衛隊を中国本土に向かわせろ」と言っただろう!
元に戻る