野田理一と親父

野田理一について親父から何かを聞いたことはありません。こういう人を多芸多才と言うのでしょう。勿論、超一流の!

追記:2013/10月某日

野田理一が亡くなりかなりの時間が過ぎましたが、それを偲ぶ人がいることが幸いです。

追記:2014/08/24

荒地1952に野田の評価が出ていたので転記しておきます。

追記:2015/04/29

荒地は戦後詩のエポックでしたが、いまや単に文学史の一つになりつつあります。全ての詩人が忘れられるように。
●野田理一と親父 2012/12/18

親父は退職してから年に一、二度、春秋の気候の良い頃に東京に遊びに来ていた。定宿は麻布十番の讃岐会館で、香川県が経営していたと思う。当時は今のように地下鉄南北線と大江戸線が開通してなく、六本木から30分近く歩いて会いに行った。今は讃岐会館という名は消え、跡地や建物は当時と殆どそのまま東京さぬき倶楽部となっている。宿泊や会議宴会などができ、都心としては価格設定がお安く、勿論誰でも泊まれるが香川県からの出張者向けの宿ともなっているようだ。親父がここを定宿とした理由は、学生時代にこの周辺に下宿していたそうで地の利があり、往時を懐かしんでいたのだろう。

さて、いつだったか鮎川信夫のエッセー集を読んでいたら、鮎川と中桐雅夫と親父の三人が讃岐会館のロビーでしみじみと語り合ったことが書かれていた。三人ともに疾患を抱え、退役傷病老兵の昔話のような場だったそうだ。親父は老境にかかる自身の衰えもあり「これで最後か」と言ったそうだ。その後あまり時間をおかず中桐が亡くなったことから、鮎川が「本当に最後のLUNA(*)の集まり」になったと書いている。その最後の集まりの時に、親父が東京へ行く途中京都で泊まり野田理一の個展に行った際、野田は「ダンテの肖像には横顔しか残ってなく、それを正面から描いてみたい」と言ったそうだ。そういうちょっとした仲間内の会話が皆にエネルギーを与えるというような記述だったと思う。
 *: LUNAとは日華事変勃発の頃に結成されパールハーバ攻撃の時まで活動した当時無名の若い詩人十数人のグループ。

ところが最近、野田が親父に謹呈した恐らく最後の詩集であろう「対応」を読んでいたら、ダンテの肖像(正面から見た顔面を中心にその下に何かを食べている人と別の人の顔が?)が出ていて驚いた。野田は、親父が彼から聞いていた「ダンテを正面から見た絵」を描ていたのだ。その絵は、モノクロ写真で、かつ精細な印刷ではないので全体的な雰囲気しか伺えないが、機会があれば本物を見てみたい。私には、詩を評価する力は無いが、絵が上手か下手かは分かると思っている。実は私は子供の頃から絵を描くことが大好きだった。さて、ここに印刷されている絵は粗いモノクロだが、その迫力は凄い。野田は画家になっても大成しただろう。
元に戻る

追記:2013/10月某日
この話には後日談があって、このエッセーを読んだ滋賀県日野町にお住まいの野田理一研究家の高井儀浩氏から送付いただいた現代詩手帖9月号(昭和62年)によると、"なお、ダンテについては、後日、『タイム』で正面を向いた肖像写真を見たので、野田さんに送って喜ばれた。"とある。すると、前段落の「ダンテを正面から見た絵」は野田が書いたものでなく親父が送ったタイム誌のコピーだったのか?また親父が上京したのは、途中京都で野田の個展を見るのが主目的だったとのこと。この追悼には"野田が関西学院の英文科に学んだことがダンテに関心を持ったのか"などと、親父の勝手な妄想が続く・・・いずれにせよ、私にとっては点と点が線で繋がった楽しくなる話だ。

追記:荒地詩集1952から2014/08/24

野田は1952年から荒地に加入したようだ。野田の詩に対する最初の評価は

中桐 「荒地」同人の誰も野田に逢ったことがないんだが、この際言っておきたいね。「荒地」がセクト主義だといわれるけれども、誰も会ったことのない人の詩だって「荒地詩集」に入れるし、昔からの知合いの人の詩だって落とすし、別にセクト主義ではない。
鮎川 いわば共感をよぶんだな。この作品自体はどっちかといえば、モダニズム系統の詩なんだよ。僕らが経験したモダニズムより根のしっかりしたものだと思う。
黒田 結局一人の読者として、詩を読むというふうな一種独特な読み方をするんじゃなくて、普通にただ書いたものを読むという程度の読み方でも共感があるわけなんだ。
鮎川 そうそう。
黒田 そういう点でもちょっとめずらしいと思うんだ。特殊な詩のワクからやっぱり外れているからな。
中桐 それと、野田の詩が一九三〇年代の英詩の影響から出たことは誰がみてもよくわかることなんだがね、そんなことは問題ではないんだ。

とまあ、口の悪い荒地の重鎮達(当時は彼等もこの世界では若造だったが)が絶賛!

野田の詩から

 「危機」からの合唱

        1
 塵の中に紛失する。
              何が紛失する?
 ―それは心の中にある意味であろう―
 地下鉄の濁った空気の中で目的地に着くまでは安全であ
   る。
              安全なのは誰か?
 ―それは逃亡者の心理であろう―
 別のスフィンクスが人の心の中に砂に埋もれた部分を作
   り死の戦いと戦いのような平和の中でアンテナがコー
   ルサインを掴む。
 …

私は詩が分からないのでこのあたりで止めておくが、アンテナとコールサインは私には親しみのある用語である。詩のわかる人には申し訳ないが、続きは1952荒地詩集で!

追記:野田理一展と講演会 2015/04/29

つい先日、野田理一研究家の高井儀浩氏より氏が野田の故郷日野で行った"野田理一展と講演会"の記録集を送付いただいた。その中に

…ちなみに『荒地』の詩人で野田さんの蔵書にあったのは、鮎川、衣更着と、木原孝一、北村太郎、中桐雅夫、吉本隆明でした。鮎川と並ぶ『荒地』の中心詩人である黒田三郎と田村隆一は一冊もありませんでした。

とある。その見解を高井氏は明に述べてないが、その頁に叙述された全てがその理由を醸し出しているようにも思える。
元に戻る