田村隆一著:若い荒地を読んで(2)

若くして無くなった人のことは、そして親しかった度合いに応じて、忘れられないものでしょう。
●田村隆一著:若い荒地を読んで(2) 2012/10/1

この本の第2章までは、著者の田村隆一の生い立ちや学校での交友関係、大正末期昭和初期の庶民の生活風俗が記述されている。第3章の「非望のきはみ」に至り、LUNA、Le Bal、「詩集」とその誌名を改題しながら生き延び、戦場に消え、或いは自ら命を絶った詩人達の話に入っていく。そして最初の詩が戦死した森川義信、次が自殺した牧野虚太郎である。回想録はえてして死んだ仲間の比重が最も重い。死をもって全ての事柄が終了し、その後の展開は無く、生き残った者は死者の想い出を抱えて生きるしかない。

さてなぜこの本を読むのか、亡くなった親父の仲間達とその青春時代が記述されているからだ。昭和12年から真珠湾攻撃の日までのことで、当時詩に関心を持つ若者達にとってはとりわけ暗い時代だったことだろう。詩は戦争に何の役にも立たないからだ。後年戦争詩人などと揶揄された人もいたようだが。そういう中で明に戦争反対を叫ばず暗に徴兵拒否するせいぜい十数人の若い詩人集団の記録だが、親父がその一人だったこともあって私には大変興味深い。

著者の田村隆一が荒地に参加したのは昭和14年8月とのことだが、「北村太郎につれられてル・バルのパーティに初めて出席した・・・」とある。この時のことを親父は私によく語っていたが「例会に行くと、北村や田村達が首を並べてちょこんと隅に座っていて、まるですずめの雛のようだった」とのこと。恐らくこのパーティのことで、親父が田村達に持った初印象だろう。当時3歳違うと大学生と中学生、感覚的には大人と子供ほども違うはずだ。

驚くべきことに、「まともに大学が卒業できたのは衣更着信ぐらいではなかったかと・・・」とあり、ほぼ全員退学の憂き目に遭ったとのこと。田村達より年長の連中はほとんどが軍事教練の出席日数不足だったそうだ。つまり明に戦争に反対していたのだ。彼らの仲間でなぜ親父だけが教練を拒否しなかったのかよく理解できる。幼少時より病弱で権力に対抗する気力体力が無かったのだ。彼は確かに善人であり、戦争や軍人を極度にきらっていたが、むしろ自分自身の病の方が怖かったのだ。幼少より持病により明日死ぬのでないかと思っており、私が成人してからも"死ぬ"という言葉は日常語だった。後年それがメニュエール氏病であり、実は死にいたる病ではないことが判明するが、それが分かってからも「明日死ぬかも知れない」という感覚から開放されることは終に無かった。思うにそれは親爺の性格の一部となっていたのだろう。そして仲間内では最も長寿をまっとうし84才の時老衰(死亡診断書には多臓器不全とある)で亡くなった。
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