「若い荒地」と親父

親爺のぼやきです。

追記:2016/4/29

若かった中桐と選ばれた若い詩人達の能力には敬服するものがありますが、たまたま戦前のある時期に文芸雑誌若草を媒体として醸成されたことは偶然としか言いようがありません。

「若い荒地」と親父 2012/09/22

親父の若いころ、戦前の話であるが、この本を読むことで往時を偲ぶことができる。何度か親父から聞いた話も散見される。ここに出てくる当事者達の特徴は、有名詩人を含まず、リーダもいず、当時の詩壇にその存在を認められてはいたが、中央詩壇の影響を受けず独自に活動していたとのことである。そうは言っても、リーダなくして群れが存在できるはずもなく、本書によると中桐雅夫がグループメンバーを集めたのが事実のようだ。つまり、スタート時の荒地のメンバーは中桐の好みで決まったと言えるだろう。

当時この群れは、"LUNA"という同人誌を刊行し、後に"Le Bal"、"詩集"と改名し、真珠湾攻撃で解散状態になる。その間の記録だが、正確には昭和12年頃から昭和18年12月8日までの田村隆一の思い出が記載されている。この中に"冗談且つ遠まわしな弁明の巻"という章があって、ここに親父が大切にしていた"命の次に大切な本"を田村に貸し、それが消えた経緯もある。この章では「ところがどうだ、引越し荷物のなかに、大切な、あの心のやさしい衣更着信から送って来てくれた『ルナ』『ル・バル』のバックナンバーが、まぎれこんでしまっているではないか。いまさら、荷物はほどけないし、『ユリイカ』のおそろしい髭を生やした編集者がやがて、一日のばししていた今日の、あと一時間ぐらいのところで、あらわれるのだ・・・」と達筆の田村にしては、しどろもどろの文章なのだ。恐らくこの頃、親父や親父の友人の鮎川から返せと催促されていたのだろう。今も我が家には鮎川から来た「この件を伝えた」との葉書が残っている。

親父はと言えば、この本が出たことで田村を許すのかと思いきや、晩年になってもこの話をしていた。つまるところ、私に何度も言ったことだが「二度と手に入らないものは人に貸すな」である。ある本に、私が富士通で大変お世話になり今でも師と仰いでいる元上司F氏のご家庭の話が出ていた。大切な雪舟の掛け軸をF氏かその御兄弟かが家庭教師と遊んでいて破いてしまった件だった。この家庭教師は後日ある会社の重役になったそうだが、その当時F氏のお父様から「二度と手にはいらないものは大切に」との注意を受けたとのことだ。当然大変なお叱りを受けると思いきや、やさしく諭されたことに感謝する一文だったが、我が親父殿は死ぬまで田村を怒っていた。

田村は大酒飲みで全収入を酒につぎ込んでいたようだ。してみると、親父が田村に貸した本も古本屋に消え、酒代となったことは間違いない。黒田三郎の著作にもほぼ同様の話がでてくるが、彼の場合は田村が若い荒地を書くためには黒田の蔵書が犠牲になっても仕方ないとの記述だった。親父に比較して、少々前向きな酒好きの黒田特有の自己弁護である。今となってみると、我が家に"LUNA"、"Le Bal"、"詩集"があれば、親父の遺稿などとともに本棚を飾れると思うが、若い荒地に顛末が記載されていることで良しとしよう。もしこれらの本が古本市場に出てくることがあれば、一式揃えて仏壇に供えたいが、恐らく目の玉が飛び出るような値段になるだろう。
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追記:荒地の人選と活動について鮎川信夫が述べていた 2016/4/29

鮎川信夫が荒地詩集1955で"『荒地』に関する二つのエッセイ"との表題で荒地について述べている。その中に荒地は特定の共通の目的や志向を持った集団でなく、いわゆるセクトというもので無いとのことだ。

…僕はひとびとが言うほど、そんなにはっきりした形で《荒地的》というようなものが、「荒地」に存在しているとは思はないのである。
 「荒地」は、グループとして固定化していないし、ひとりひとりの個性を忘れるほど、画一主義に陥ってはいない。また、いわゆる少数者の自己中心主義に溺れてはいない。また、いわゆる少数者の自己中心主義に溺れて、狭い独善的信条にとぢこもるほど衰弱してはいないと思う。
 しかし「荒地」が年二回のアンソロジイを出して、作品活動を行っているかぎり、それが外部の人たちからいわゆる荒地一派としてとりあつかわれるのは、やむをえないことかもしれない、…

とあり、私のエッセイの第一パラグラフに述べた中桐雅夫の好みで集めたと決めつけたような言い方は、中桐が当時の世相に反逆的な若草の投稿者を選び選ばれた側もその意図を汲んだとも言えよう。もちろん、その根拠は詩そのものにあり、選んだ中桐や選ばれた若者たちの詩的能力は抜群だったとも言えよう。
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