鮎川信夫とトーマス・マン

トーマス・マンは「ドイツでは、今や古典扱い」だそうですが、いずれ我が国でも芥川龍之介がそうなるのでしょうか?

追記:2014/09/17

戦争責任の問題は、ヨーロッパでは厳しく追及されたそうですが、我が国では事実上うやむやになったと思います。再び愚劣な戦争を起こさないように、一方国民を守る為には強力な軍隊が必要だと思います。矛盾するようですが、私の中では一貫性があります。

追記:2015/06/09

伊藤整の息子伊藤礼が書いた伊藤整の自伝とも言えます。文中には千歳烏山という私が下宿していた地も出現し、なんとなく身近に感じてしまいました。

●鮎川信夫とトーマス・マン 2012/07/22

鮎川の叙述にはトーマス・マンが頻出する。トーマス・マンはドイツ人だが、ヒットラーを嫌ってアメリカに逃げたということと、ヒットラーへの嫌悪はともかく戦争行為そのものを嫌悪していたということが若い荒地の詩人達の共感を呼んだのではないだろうか。代表作「魔の山」ではトーマス・マンの心情が如実に伺える。私にはトーマス・マンは単に第二外国語のサイドリーダとして出現したのだが、著者は反戦のスローガンをその中にさりげなく入れたようだ。そのようなことが無教養の私に分かろうはずもなかった。なお、トーマス・マン夫妻が終戦直後ドイツに帰り瓦礫と化したシュッツトガルトで撮影した写真も載っていた。

鮎川は単なる反戦論者でなく、とにかく人を殺したくなかったようだ。大卒の即席将校として人殺しを率先して行うことはとても受け入れられなかったのだろう。だから教練をエスケープし、結局退学することになった。親父も軍事教練が嫌でたまらなく、軍人が大嫌いだと言っていた。この脈絡でトーマス・マンが効いてくるのだ。鮎川だけでなく全ての荒地の詩人は、左翼でもなく、右翼でもなく、単なる平和論者でもなく、彼らのたましいが詩人だったと思う。詩人とは高貴な精神構造を持ちそれを短い文章で表現できる人だと私は勝手に定義している。

荒地の詩人が積極的に安保闘争に乗り出した(*)などとは聞いたことがない。つまり、荒地はそういう集団だったのだ。だから彼らは戦後直ぐに復活し何のわだかまりも無く詩の世界に入って行けたのだと思う。左翼とか右翼とかは関係なく、詩とは何かその目指すところが純粋でそこのところを彼らは共有できていたのだろう。当時の御時勢は、健康な奴は戦闘で死に、ひ弱な奴は結核で死ぬ、運と要領のいい奴だけが生き残る不条理な世界だったろうから。
 *: この記述には私の思い込み的誤りがある。別の書によると"黒田三郎が国会に向かうデモにトボトボとついていった"とのこと。その時、ふと思い出したのだが私の学生時代吉本髢セは全共闘の精神教祖的存在だった!吉本は60年安保の時に、逮捕されたようだ!

ところで、なぜか田村隆一は予科練だったようだ?飛行機好きだったか浮遊感覚を求めていたのか、今となっては謎だ。余談だが、親父に、受験の度胸試しに防衛大学校を受けてみようかと言ったら、本気で怒っていた。数年前、たまたま知り合ったドイツやアメリカの若者数人とインドネシアのロンボク島で1週間ほどサーフィンを楽しんだことがある。その時、その中の一人に私が「大学1年の時にトーマス・マンがドイツ語のサイドリーダに出ていた」と話したら、トーマス・マンは今やドイツでは古典だそうだ。また「ドイツ語の教科書に出ていた代表的ドイツ女性の名前はインゲだ」と言ったら、今時そのような名前はドイツでは皆無だそうだ。さしずめ、山田イトとか佐藤ウメかも知れない!

追記:戦争責任と日本社会:鮎川信夫を読んで 2014/09/17

これは現代史手帳昭和59年11月号に記載されたもので少々古いが、桜本富雄氏が戦中の文人達の戦争礼賛の書を非難することに対する鮎川の見解である。簡単に言えば、執筆者により多少の違いがあるにせよ戦時中に文書を起こせば多かれ少なかれ「桜本の言う戦争責任」は免れ得ないものになってしまうとのこと。このエッセーでは、朝日新聞昭和59年8月13日付け夕刊が「文章の戦争責任」という表題で桜本の言を礼賛しているが、この類の問題に敏感すぎるかとも思う私でも少々針小棒大とも感じてしまうのは、昨今の朝日新聞の従軍慰安婦問題もあるせいだろうか?それとも、たまたまNHK連続テレビ小説「花子とアン」の、村岡花子氏が子供向けニュース朗読を断るシーンだろうか?戦時中に放送や教育に関わればどのレベルであれ戦争協力となり、誰しもそれから避けられないないだろう。戦争反対を明に叫んで刑務所にぶち込まれるしかない。なお、荒地の詩人達は戦時中筆を絶ったが、鮎川は福井の結核療養所で手紙を書くふりをして詩を書いたそうだ。

追記:伊藤整氏奮闘の生涯を読んで 2015/06/09

伊藤礼の記述によると、伊藤整は昭和22年、北大で「文学時評」という題目で講演をしたそうだ。その内容は、

…「自分達はみんなある意味での戦争犯罪者なので良心に咎を感じているが、文士というものは心がやましいとものが書けない。たった一人、自分達の仲間に上林暁というのがいて、彼だけは幸か不幸か戦争中気のちがった細君のことばかり書いていたので、何の負い目も感じないからつぎつぎに発表している」
 これはその頃北大にいらっしゃった真方敬道氏があるところにお書きになったものからの引用である。…

とある。およそ軍国主義とは全く関係ないと思われる伊藤整でさえも、戦時中に何かをかけばこうだったのだ。ただし彼は戦後間もなくその制約から解放されたせいか、「チャタレイ夫人の恋人」を翻訳しわいせつとして有罪となり、「女性に関する十二章」を書きベストセラーとなった。ただし双方共に、今となっては誰からも振り向かれない。それほどに世の移り変わりは激しいのだ。
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