黒田三郎と田村隆一、そして雑誌「荒地」刊行

終戦直後の詩人達のエピソードです。食うや食わずの状況で詩集を出すことは、それだけで賞賛に値します。例え、蔵書が酒に化けようとも!もしかすると、紙代に化けたのかも。

●黒田三郎と田村隆一、そして雑誌「荒地」刊行 2011/1/30

1947年私が生まれる前年、月刊「荒地」が岩谷書店から刊行されたという。終戦直後の資材不足のなか田村隆一の采配で紙の配給を受けるなどし、苦労して出版されたようだ。黒田はこの雑誌のバックナンバーを全て持っていたが、田村隆一が「若い荒地」を書く時に貸したそうだ。勿論帰ってくることは無かったとのことだが、黒田によると『「田村に渡せば、使ったあと飲み代になって、みすみす失われることはわかっていたが、失われることより田村が「若い荒地」を書くことを、僕は大事だと考えた結果である。』とのこと。これは負け惜しみか、忘れたいが為の自己暗示だろう。

親父もあるとき同様に田村から戦前のLUNAなど一式の借用依頼があり、送付したが二度と帰ってくることが無かったと何度もボヤいていた。最近、鮎川信夫から親父に宛てたハガキが出てきたが、「田村に返すように伝えた」とのこと。親父は鮎川経由でも田村に返却依頼していたようだ。そのせいかどうか生前親父は私に「二度と手に入らないものは人に貸すな」と何度も言っていた。親父にとって、自分の詩が掲載された青春時代の同人誌は宝物だったのだろう。勿論、関係者以外には単なる風呂の焚きつけにすぎないが!戦前の雑誌「若草」も親父は熱心に投稿していたそうで、親父の詩が載ったものは揃っているはずだが、今は見当たらない。一方、恐らく田村が古本屋に売ったであろう親父の戦前のLUNA一式は誰が買ってどこにあるのだろうか?少々興味がある。

後年親父は資金的に余裕ができると、欲しい本は全て買っていたようだ。おかげでライブラリといえるかどうか、6畳のプレハブには安っぽい金属製の本棚がならび数千冊の本がある。殆どの本は希少価値が無いもので、古本屋にも重さでしか売れないものばかりであるが、荒地の仲間達が戦後出した詩集やエッセイなどは全てあり、その価値はウェブで見ると定価より少々安いくらいで取引されている。いずれにせよ売る場合はその半額以下になるので資産価値は殆ど無いが、どのような本を読んでいたか分かることで親父を偲ぶことはでき、私には金銭的に計りきれない価値がある。若い頃はこれらの本に全く興味が無かったが、暇ができたので親父の詩やエッセイが掲載されたものを少しずつ読み始めた。すると、幼児期の出来事などが突然思い出されることがあって心がときめくこともある。

私に資金的余裕ができたら、自宅の一間をライブラリにし親爺に関連する全ての本を分類して飾り、知人縁者に開放したり、一冊また一冊とビールを飲みながら読みたい。一方、親父が幼児期の遊び場だった湊川の河岸に碑を建ててやりたいと思っている。最近、近くの白鳥神社に行くことがあり、境内に隣接した松林の中に桑島玄二の石碑を見つけた。そして驚いたのは、その裏に親父が書いた解説が刻まれていたのだ。桑島玄二は親父と同じ旧制中学の二年下級生だった、よく我が家を訪れ大声で詩の話をしていたことを思い出す。とても人の良いおじさんというイメージだった。大阪芸大の教授だったが、サービス精神旺盛で生徒には人気があったことだろう。
元に戻る