黒田三郎と親父

持つべきものは友という典型的な例です。私も様々な局面で友に助けられました。この年になっても、世話してくれる友や子供の頃と同様に付き合ってくれる友がいることは大変幸せです。
●黒田三郎と親父 2011/1/31

黒田三郎は同じ詩人グループに属する親父のことを詩風が違っており若い頃は好きでなかったようだ。戦前から互いに接点があったとのことだが、親父の詩は黒田には理解できなかったとのこと。ところが黒田も老境に至り、それぞれの仲間に対して気が回るようになったようで、「黒田三郎著作集3」の記述によると、「同じ荒地というグループの仲間の誌でもよくそのよさがわからぬものも少なくない。例えば、衣更着信の詩のよさがおぼろ気ながらわかるようになるまで、数年かかったし、吉本隆明の詩など最初は一読しても二読しても歯が立たなかった。・・・」とある。親父と吉本隆明を並べるところは黒田のおなさけだろう、差がありすぎる。

そもそも詩であれ小説であれ、言語を使うそれは互いの通信の手段だからどのように解釈するかは受け取った側の理解力に依存する。数式のように完全に一意の解が得られるならばなんの苦労もないが、互いが交信する道具である言語はその状況によりどう理解されるか分からない。たとえ「好き」と言われても、貴方のことは「大嫌い」だけどここでは注文を頂きたいから「好き」などよくある話である。ただ年老いた黒田達は無名だった親父のことを気遣ってくれていたのかどうだか「地球賞」の審査員として第一回受賞者に親父を指名してくれたことに感謝している。

さて、詩は何の役に立つのだろうか。母は「あんなもんは何の役にも立たん!」と良く言っていた。後年親父が地球賞を受賞した時も、その言が出ていた。私の幼児期、母と父が叩きあい取っ組み合う夫婦喧嘩が何度もあった。幼い私は何もできなくただオロオロとし泣き出すのである。今考えれば当時は貧しかった。貧しさ故の行き詰まりが心の冷静さまでも無くすのだ。ある時期米もなく麦飯が長く続いたこともよく覚えている。もちろん麦と米が混ざっていることは当然であった。最近10歳上の京都の従姉と話すことがあり、終戦直後の京都では雑草も無かったと言っていた。つまり戦後しばらく庶民は雑草までも食っていたのだ。小学校低学年の頃よく遊んだ同級の崔が北朝鮮に帰国したが、数年前木の皮まで食べ大勢の餓死者が出ているという報道を聞いた際には心が痛んだ。元気で暮らしていることを祈るばかりだ。

黒田三郎の話から我が家の内情へと脈絡が乱れたので元に戻すが、私は黒田氏と一度だけ会ったことがある。地球賞の授賞式の際、青山会館のロビーだったと思う。黒田氏はしきりに親父を受賞後の飲み会に誘ったが、親父はキッチリ断っていた。そもそも親父はビールをコップ一杯が適量でアルコールはめっきり弱かった。だから宴会は大嫌いだったのだ。事実上、それ以降親父と黒田三郎が会ったことは無かったと思う。荒地の詩人達のエッセーを読んでも、互いがつるんで云々という話は全く無い。そもそも詩人は孤独なのか!
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