藤浦洸と「美酒すこし:中桐文子著」

"私の秘密","話の泉"というNHKの番組が我が家の定番だった。親父が漫画やお笑い番組を徹底的に嫌っていたので、我が家ではそういう番組は見た覚えがない。子供の気持ちを全く理解しない人だった!
●藤浦洸と「美酒すこし:中桐文子著」 2011/10/11

貧しい我が家が周囲に遅れてやっと買えたモノクロ真空管のしばしば故障するテレビを見ていた頃、藤浦洸はNHKの「私の秘密」に出ていたのでよく覚えている。同番組のもう一人の男性レギュラーで渡辺紳一郎は、その博識たるや東大を出てパリに留学、戦前に朝日新聞のパリ支局長歴任など親父が最も憧れるスーパースターであった。渡辺紳一郎に対する憧れがどの程度であったか、私の名前に一字パクっていることからその程が知れる。蛇足ながら私自身は渡辺紳一郎に似ても似つかぬレベルの低い人間で終わってしまい、氏にはまことに申し訳なく感じている。なお、私は戸籍上長男だが、実は死産の兄がある。もし兄が生を受けていれば、彼の名は紳一となり、私の名は全く別のものになっていたはずだ。そして二字をパックった亡き兄は私より少しは氏に似たところがあり秀才だったかも知れない。

さて、親父が旧制中学の頃に投稿していた「若草」という雑誌に対して、女性文芸雑誌として「令女界」というものがあり、藤浦洸は投稿欄の選者だったそうだ。これに中桐文子が投稿し、何度か特選になっていたとのこと。中桐文子は投稿仲間の紹介で藤浦洸と知り合いになった。その投稿仲間には、秋篠ナナ子、端丘千砂子(芝木好子)がいたそうだ。秋篠ナナ子は親父が所属していた戦前の詩誌LUNAの同人でもあったようだ。このLUNAの編集長が中桐文子の夫となった。今のように活字が氾濫している時代でもなく、ましてインターネットなど無いから雑誌投稿が全国区への進出チャンスだったのだろう。それだけに雑誌に掲載されるにはかなりの実力が要求され、彼ら彼女らは互いに意識しあう関係だったと思われる。

ところで、「令女界」という言葉の意味は何ぞやと思った。いかにも怪しげな響きを感じてしまったのでGoogleにアクセスすると、第一にソープランドの「ニュー令女」というのが出てきた。次は「夏侯令女」という三国志に出て来る貞操を守り続けた女性であった。この女性の名前の「令女」が雑誌名に引用されたようで、決して怪しい意味では無かった。しかし、この命名とは裏腹に当時の若い女性向け雑誌としては斬新で「身の上相談、美容相談、男女の恋愛を描いた小説」なども掲載されていて購読を禁止する学校もあったそうだ。

少々脈絡がズレれたが、私にとっては意外なところであのブラウン管を通してしか知らなかった藤浦洸が出現したことが驚きであった。なんだか身近な人だったのだなと思えるようになってきた。なんと言っても、わたしにとって藤浦洸は「別れのブルース」である。戦前の曲だが、子供の頃からラジオではよく流れていた、テレビ時代になってもあの淡谷のり子が歌っていた。最近幼なじみのガールフレンドから港に面した家(*)をもらったのだが「窓を開ければ港が見える」というフレーズがよく似合う。
 *:この家こそが、つい先年私が設立したTokyoPeaksの本社である。改装費には500万近くをかけたが、一見新築同様になって満足だ。
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