荒地と音楽

親父はハーモニカが得意でした。昭和の初めの四国の田舎で、小学生の楽器と言えば、ハーモニカくらいしか無かったのでしょう。
●荒地と音楽 2014/3/14

荒地の詩人の著作はあまたあるが、音楽に関するものは私の知る限り無かった。彼らの青春時代、盧溝橋事件勃発の頃にピアノやギターを弾いている人は少々軌道を逸脱したか、芸術家のみだったろう。そもそも義務教育における音楽教育はどうなっていたのか分からなく、調べてみる気もないが。さて、なぜこれを書こうと思ったかだが、"北村太郎の仕事3"を読んでいると、音楽に関するエッセーがあったからだ。

このエッセーは「これはまったくのしろうとの談義である。しろうとの域にさえ達してない者の音楽論である。」で始まる。そこには、ベートーベンやモーツァルトなどが話題となる。文中に、鮎川信夫が出現し「交響曲なんかそろえるもんじゃないよ」と言ったとある。北村がステレオを買うかどうかという話をしていたときとのことだそうだ。少々ズレるが、貧しかったわが家でも親父が初めてビクターの廉価版プラスティック外装の卓上ステレオを買い込み、同時にドリス・デイのドーナツ板ケセラセラを持って帰った。これがわが家のレコード音楽のスタートだった。私は直ぐにケセラセラを完璧に覚えてしまった。発音までも!なぜって?それしか無いから毎日聞いていたのだ!次はマリリンモンローの The River of No Return だった。丁度小学校から中学に上がる頃でどうにか英語という外国語の仕組みも分かりかかっていたから覚えられたと思う。

さて、鮎川はこのくだりで「交響曲なんてそろえるんじゃないよ」と言ったことだが、この含蓄は、今となっては本人に聞いてみなければ分からないが私の理解は単なるコレクターになるな(*)と言うことだと思う。過去に出会った人で、レコードをコツコツと貯める人は、なんだか自信が無いと思われる人が多かったと思う。特に身近にいたある人を思い出すと、豊かな学歴や環境に包まれていたが、なんだか存在感の無い方だった。私にすれば音楽は楽しめばいいと思うのだが、その楽しみ方が変質して、1から10まで揃えておきたいとなるのではないだろうか。果たして収集したレコードを聴いていたのだろうか?磨り減るから、大切に仕舞い込んでいたのでは?
 *:北村の解釈は、「…ドイツを本家とする交響曲なんぞ、妙に深刻で、独裁的、インチキ教養的であって、あんなの音楽じゃねえ、…」とのことだが、ジョークだと思う。段落を変えて、黛ジュンの"天使の誘惑"なども語っている!

このエッセーで最も私の興味を引いたのは、北村が38歳からピアノを始めたことだった。「バイエルをどうにか卒業し、ブルグミュラーの2ページ目くらいをやっとこなせる程度にピアノが弾け…」とのこと。北村のピアノのレベルは丁度私と一緒だった。私が38歳の頃、仲の良い同期入社の連中はほぼ全員管理職になったが私は先が全く見えなく、さらに精神面の弱点である円形脱毛症も癒えなく暗黒の日々だった。そのような状況で、娘達のために買った(実は自分が欲しくて)パナソニックの電気ピアノで勝手にアレンジしたビートルズやプレスリーを弾いて悲しい自己満足にひたる日々だった。
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