北村太郎とサザンオールスターズ

荒地の詩人で音楽のエッセーが出てくるのは北村太郎だけですが、今日はサザンが出てきました!
●北村太郎とサザンオールスターズ 2014/08/14

"北村太郎の仕事2散文I"を読み始めて、いきなりサザンオールスターズが出てきたので驚いた。サザンオールスターズの「いとしのエリー」である。分かりやすいメロディーだが、彼はその歌詞に引き込まれたそうだ。

笑ってもっと baby むじゃきに on my mind
映ってもっと baby すてきに in your sight

この"ルフラン"つきの名曲を繰り返し聴いているのだ。とのこと。私にはフランス語が分からないが、その語感から恐らくルフランとはリフレインだろう。詩は韻を踏むということを国語の時間に学んだが、実に分かりやすい韻である。英語の詩の場合は、特に韻を踏むということを大学一年の英文学の時間に学んだが、エドガーアランポーのGolden Bellという詩を例に教えられた。あの教科書はどこに失せたかなぜか今は手元にない。やたらと自慢話の多い英文学の教授が書いた本だったが、明らかな誤訳もあって私の友人は彼をバカにしていた!

北村は老いてから特殊な病気にかかったそうで、死が予測できたようだ。だからそれが医学的に明になった時点で、性格までも変わってしまったように晩年はやたら饒舌になり、対人関係も円滑になったとも思われる。このエッセーではWalkManをSitManと称していたから、屋内で椅子に座って聞いていたのだろう。彼はウオークマンの音質の良さと手軽さを賞賛しているが、実は物理学的には音の特性として音源が耳に近いほど(*)音質は良くなる。彼は、その音のよさに感激して室内でWalkManを聞いていたようだ。
 *:耳元で女性にささやかれば、男ならばおかしくなるのが分かるだろう!但し、私にはそういう経験は無い。

このエッセーではサザンが出てきて、なぜか風俗の話になり、さらに鮎川信夫も引用されている。この脈絡はついていけないくらいぶれているが、私には読む意義がある。少々なりとも彼と親父との関係、彼らの生きてきた時代が感じられるからだ。文明と風俗を彼の理解で述べているくだりは彼らの世代の潜在意識なのだろう。このエッセーの肝は「…たぶん、ことしの秋から冬にかけて出す詩集で、私の詩は終わるだろう。…大分さきが見えてきたぞ。」に違いない。彼の残された時間が感じられるからだ。単に私の見解にすぎないが。
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