RX7を買った理由

過去に所有した全ての車に想い出があり、思い入れもあります。今となってみると、あんなこともやったんだなと自分でも驚きます!
●RX7を買った理由 2015/02/21

最初に手にした車はブルーバードSSSセダンという車で、1600cc、SOHC、4輪独立だった。510という別名を持っていて、当時は名車としてあがめられていた。米国でも受け入れられたようで、日産の米国向け乗用車のメイン車種だったようだ。私は1973年に24歳で富士通に入社し、独身寮に住んでいたとき同期入社の内山君からこの車をもらった。彼は私と同じ研究所配属で私の部屋にマージャンで入りびたり、一時期私が寮長、彼が副寮長として兄弟のようにつるんで遊んでいた。あるとき、彼はクラウンが手に入ったので、使っていたブルーバードを私にくれると言う。もちろん私は「本当?」と言って小躍りして喜んだ!これが私の最初の車であり、車遍歴の始まりである。

Wikipediaによると、当時のブルーバードSSSセダンは「日本国外では、廉価でありながら欧州車並みに高度なスペックを備えた魅力的なセダンとして「プアマンズ・BMW」との評を得、ラリーフィールドでのタフネスな活躍ぶりとも相まって人気を高め、史上初めて北米市場でヒットした日本車となった。当時の米国では高校生が初めて乗るクルマとして人気を博し、その世代の米国人にとっては思い出深いクルマだという。」とある。脈絡はずれるが、私が富士通ドキュメントという会社で働いていたときの同僚で友人だったミシマー・ダンカンという背が高く痩せて私と同年齢くらいのカリフォルニアから来た品のいい男がいたが、高校生になり彼の親父が買ってくれた最初の車は中古のサニートラックだったとのこと。当時も今も米国では高校生になると免許を取り車で学校に通うというのは普通だ。

さて、1月18日の日経:私の履歴書に王貞治氏が1964年5月5日に広島が王シフトを始めたことを記載している。「広島の白石勝巳監督らが東洋工業の電算機で打球の方向を分析して考えたという…」との記述で、RX7のことを思い出したのだ。実は、当時東洋工業で件の分析をしたのはシステム部の渡辺という人で、RX7が発売された頃には富士通に転職し小型機の部長だった。勿論私は渡辺氏(*)とは面識が無かったが、RX7の新聞広告が出たとたんに欲しくなり友人に「ポルシェ924と性能が一緒で、価格が1/3だから買わない手はない」と言ったら。もし本当に買うのだったら渡辺氏を紹介するということになり、渡辺部長に会い、氏の口利きで会社から最も近いマツダのディーラに工場から直接届けてもらうことになった。私が買ったのは、RX7でも最も廉価版で神奈川では最初の1台とのことだった。
 *:素晴らしいエンジニアで当時9450という名称で、Z80をCPUにしたTSS端末のコンセプトを打ち出したそうだ。この端末は、事実上現在のPCの全ての機能を備えていた。またバブルメモリを使うなど、最先端も走っていた。

それから8年くらいRX7に乗り、家族も増えたので4ドアセダンに乗り換える際に8万円で売却した。当時はまだインターネットは無く、パソコン通信の「売ります・買います」のカラムで売ったが、訪れた若い男は大変嬉しそうだった。格安だったということだろう。その数年後、シリコンバレーに出張した際の日曜日にフラフラと暇つぶしのドライブしていた際、パロアルト空港近くのビーチパークでRX7を見た。たまたまこの車の所有者と話しになり、車の話題で盛り上がった。今や初代のRX7が走るのをみたことが無いが、私には忘れがたい車である。なお、この車は黄色だったが、5年後にちょっとした気晴らしで青に塗り替えた。中古のコンプレッサーを浅草で買ってきて、自宅の庭でやったがちょっと見にはよく出来ていた!自分で車を塗り替える人はどれくらいいるのだろうか?
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