加島祥造の訃報

加島祥造氏は親父の詩人仲間の最後の人でしょう。皆、誰であれ例外なく死ぬことに、つくづく人生のはかなさを感じます。

追記:2017/04/30

詩人が亡くなると、親父の書庫を見ることが私の習慣です。大岡信氏の本は何冊かあります。私には全く詩を味わうことができないことが残念です。

●加島祥造の訃報 2016/1/6

夕刊を読んで加島祥造の逝去を知った。92歳というから、荒地の詩人としては最後の人だろう?親父(衣更着信)は加島氏と戦前に知り合ったそうで、荒地の詩人の集まりで初めて会ったようだ。その時加島は中学生だったから、恐らく大人の集まりに子供が招待されたようなものだったろう。戦前に初めて彼らに会った時のことを書いた親父のエッセーを読んだことがあるが、それがどの本でどのような記述だったかは思い出せないが、加島祥造という名前は私には親父の親しい人の一人である。

加島の経歴について私がここで詳説する意味も必要もないが、英文学を専攻した人には知られている。ウィリアムフォークナーの翻訳者として有名だからだ。フォークナーが長く暮らしたニューオリンズのリプレーに加島が旅したエッセーを読んだことがある。私もニューオリンズに仕事で行き、仕事の合間に話の種としてミシシッピ川の河口までレンタカーで行ったことがあるが、今となってはリプレーに行けばよかったと思う。当時加島の著作は読んでなく、仕事の後の夜はいつものように一人お気楽にジャズバンドを聴いて酔っぱらっていた。

加島は親父とそれほど親しくなかったようで我が家に彼からの書簡は無い。しかし、加島が送ってきたのか親父が本屋で買ったのか何冊かの著書が我が家にある。送られてきたものならば謹呈のタグがついているはずだが、今度帰省した際に調べてみよう。親父は加島と異なり大学で文学を教えるような職ではなかったこともあり、加島が日を経る毎に有名になっていくことはジェラシーだったと思う。それはそうとしても、荒地の仲間が大学教授になったり、新聞にエッセーが掲載されたりする度に、我が事のように喜んでいたことを思い出す。

親父が仕事を引退した頃の弁を思い出すと、チャレンジしなかったことへの後悔が言葉の端々にあった。私もチャレンジしなかったが、チャレンジをしなかったというよりも回りの優秀な人達についていくことが精一杯でとてもチャレンジどころではなかったのが実情だ。さて親父だが、私が知る限り親父の詩人仲間は全員あの世に行ってしまった。誰であれ、死ねばお終いだ。しかし、その死を惜しむ人があることが死者へのはなむけで、その人が存在したことの意義だ。決して死んで良かったと思われる人にはなりたくない。皆そう思っているはずだが。
元に戻る

追記:大岡信氏を悼む:中村稔より 2017/04/30

日経朝刊平成29年4月8日の「文化」欄に詩人の大岡信氏が亡くなったことを偲ぶ中村稔氏のエッセーが掲載されていた。それによると大岡信氏の詩が旧制一高の校内紙に掲載され、それを中村稔氏が目にし出来の良さに驚いたとの内容である。私は詩に関して評価できる能力も見識もないのでそれについてここでは述べないが、親父が書庫に置いてある詩集には大岡信のものが何冊かあり、勿論中村稔氏のものもある。実は近所に住む親父の幼児からの親友(*)の奥さんが大変本が好きで昔の文学少女だったそうだ。それで全国の詩人から荒地の生き残りだった親父に送られてくる所謂「私の詩集」をその奥さんにあげていた。勿論親父自身の詩集も出すたびに彼女に進呈していた。しかしこれはという詩人の詩集は彼女にあげてなく、それが我が家の本棚に残っているのだ。つまり謹呈されてきた本の中で親父が評価する人の詩集は残っており、それを私は読んでみるのだが、どうにも分からないことがはがゆい!
 *:彼の娘さんは私の幼馴染で、現在の私の会社のオフィスは彼女から只でもらったものだ。男であれ女であれ友達は大切にすべきという標本である。彼女によると親父からお母さんがもらった本は全てとってあるそうだ。いつか見せてもらいたいと思っている。勿論豪邸だからライブラリの一つや二つは問題ないだろう!
元に戻る