詩作とは「黒田三郎にとって」

親爺と黒田とは、あまり会話が無かったようです。親爺から黒田のことを聞いたことは記憶にありません。しかし戦前の荒地の会合では顔を会わせていたそうです。親父は飲めなかったことが会話の少なかった原因だと思われます。

追記:2014/05/17

読み返してみると、黒田三郎の詩作とは関係の無い方向に進展しています。いつか書き換えます。
●詩作とは「黒田三郎にとって」2012/12/2

黒田三郎の場合「詩は詩人という特別な人間の特別な表現という考えは全くない。・・・日常生活における現状直視、現状批判、激しい空虚感、飢餓感のなかから、それは生まれてくる。」とのこと。嬉しいことや悲しいこと、私のような凡人でも日常の出来事に詩作へのきっかけはいろいろとあろう。小学生の頃、俳句や詩がどういうものか国語の時間に習い、いきなり俳句や詩を作らされたことがある。もちろん幼時のことだから無理やりその時間にやらされたとしか覚えてないが、出てきたものは恐らく川柳や日記にも達せず、単なるお笑いだったろう。なお、その時父兄参観日だったが、俳句の話の際ある娘が「古池や"なまず"飛び込む水の音」とやり大笑いになったことも思い出す。近所に住んでいた可愛い女の子で、今は御主人の仕事の関係で中国にいるとのこと。脈絡が跳んだので戻るが。

さらに黒田は「…トーマス・マンのトニオ・クレーゲルによって…現実には二十歳代に体験した戦争と戦後社会の生活によってである。」とのこと。荒地の詩人の随筆にはトーマスマンが頻出する。私たちの世代では少なくとも学校で習ったレベルの外国文学としてトーマスマンにピンとくる人はいないだろう。戦前高等教育を受ける人の数は現在と比較にならないくらい少なく、出版業界も小さく当時の高校生の愛読書というのも決まっていたようだ。私の場合トーマスマンは、ドイツ語のサイドリーダーに話題として出てきた程度だ。後年、ドイツの若者数人とインドネシアのロンボク島でトーマスマンについて話したことがあったが、別記した。

戦前の若者の必読書というのは、『三太郎の日記』云々ということを高校のとき物理の授業で間島先生が何の脈絡だったか仰ったことを覚えている。それぞれの時代の若者に必読書があって、皆が共有していたのだ。さて、終戦後に生まれた我々団塊の世代の必読書とはいったい何だろうか?三島由紀夫だろうか、大江健三郎だろうか?私が大学生の頃、この二人が最も注目されていた。一方、当時を彩った全共闘派は吉本隆明を教祖のように思っていたようだが。私自身は文学に全く興味がなく、下宿の近くに開店したばかりの本屋の開業記念として積んでいた大江健三郎の署名つき初版本を買って九州に進学した文学かぶれの友人陶山に送ってやった。彼はかなり嬉しかったようで、感謝感激との礼状が届いた。

大学一年のリーダーは後藤明生から教わった。当時全く彼について知識が無く、理工学部だったこともあり、他の連中も同様だったと思う。恐らく今でも、後藤明生について覚えている仲間は殆ど無いだろう。ある日、「実は後藤明生から英語を教わっている」と親爺に言ったとき、大変驚き何かを私に言ったが、今はもう覚えてない。あの時、小さいクラスだったので、先生を無理やり飲み屋に連れていくくらいのことをすれば良かったと思うが、田舎出の私には思いもつかないことだった。静かで品のいい先生で、いつも小さい声で真面目に教科書に沿って喋っていた。なお私の成績は"良"だったと思う"優"でなく!残念。
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