荒地と安保 2012/10/30

荒地のメンバーは消極的反戦意識で一枚岩かと思っていたのですが、意外な側面を見た思いです。

追記: 2014/5/17
60年安保の時に、明に賛成したのは鮎川信夫だけかと思っていましたが、松田幸雄も賛成しているので追記しておきます。

追記:2014/05/25
"戦後詩壇私史:小田久郎"によると、北村太郎が安保に賛成していたとありました。荒地の中は賛否両論ですが、互いにののしりあうことはなかったようです!

追記:2014/05/26
上記の書に、60年安保の際デモに参加した茨木のり子の「詩の危機、詩人の条件」の中での茨木の弁が記載されています。

追記:2014/05/26
上記の書に、鮎川の弁が出ていたので追記しておきます。

追記:2014/06/13
小田久郎の安保についてです。但し、もっぱら黒田の弁ですが!

追記:2015/03/06
古川氏は厚生省に入省した方です。私は仕事で何人かの運輸官僚にお世話になりましたが、実に優秀な方達でした。
●荒地と安保 2012/10/30

荒地の詩人達は全員戦争を嫌悪していたから心情として安保に反対だろう。ただしデモなどの実力行使はしないと私は端から決めつけていた。しかし、黒田三郎のエッセーを読んでいたら60年安保の時、国会近くのデモ隊につらなってトボトボと歩いていたそうだ。さらに、吉本隆明は私の学生時代、全学連の心のよりどころのような存在だったが、別の書によると彼は60年安保の時に品川駅で逮捕されたそうだ。ところが最も驚いたことは、鮎川信夫は「安保賛成」だったのだ。1981年8月8日の毎日新聞夕刊に掲載されたインタビュー記事によると、「安保反対に反対だ」と明に言っている。

この中では、それまで彼がベ平連運動についても批判してきたことも書かれており、彼の見方は「これからの戦争は資本主義国と社会主義国との間、でなければ社会主義を押し付けるために起こるのだ」とある。マルクス主義への幻想からくるベ平連運動を批判したが、当時の彼の意見はことごとく無視されたそうだ。しかし、このインタビューの時点では「全面講和論の流れにある論壇貴族達はいま、ここ数年来の社会主義国の行動で、回復不能なほどの打撃を受けているでしょうね。」と溜飲を下げている。

そしてこのインタビューから数年、1989年11月9日に東ドイツ政府が、旅行の規制緩和を「旅行自由化」と誤発表した事によってベルリンの壁が崩壊し、社会主義国が無くなってしまった現在では、イスラム主義と自由主義の違いによる戦いが始まった。これも後年彼は予測していたのだが、実に読みが深い。このエッセーで、さらに述べていることは核兵器で「80年代後半には米ソとも"廃絶"の方向に向かう動きが出てくると思っています。」との記述。「つまり、理想からそう動くというのではなく、必要の絶対性から、そうなるにちがいないというのがぼくの考え方です。」とのこと。

彼が単なる詩人で終わらなかった理由はここにある。酔いどれ詩人や自己満足詩人と異なり、詩の外側のことにも深い関心を持ち、素晴らしい"定見"を持っていたのだ。どこかで読んだが、理数系の本以外は何でも読むとあった。まさにT.S.エリオットに向こうを張り荒地に立つ日本文壇のスーパースターだったのだ。亡くなった時は、甥のファミコンでスーパーマリオをやっていたそうだが、面白そうなものには何にでも手を出す人でもあったようだ。私も何にでも手を出す傾向があるが、逆必ずしも真ならず。

追記:松田幸雄の場合 2014/5/17

昨夜"松田幸雄詩集"を読んでいたら、"安保賛成"であり、その理由は「悪行の限りを尽くしたソ連と、その体制を信奉する進歩的文化人を信用しなかった…」とある。私には詩を評価する能力は無く、彼の詩については述べられない。経歴によると松田が陸軍航空士官学校を出てパイロットとして満州に派遣され、敗戦により満州を脱出復員したとのこと。この顛末は記載されてないが、少々興味がある。そういう流れの中で彼の信条が醸成されたのだろう。鮎川信夫のみならず、安保賛成派がいたことを記載しておく。亡くなった親父や田村隆一などに聞いてみたいところだが、恐らく親父は賛成派だと思う。親父との会話では、いつもソ連が嫌いでアメリカが好きという結論になったからだ。

追記:北村太郎の場合 2014/05/25

小田久郎(*1)の本に北村太郎の意見が掲載されている。この記述は、北村の著作"センチメンタルジャーニー(*2)"の一節を引用しており、私もこの段落を以下にそのまま引用しておく。下手に省くと北村の意図が曲がりかねないからだ。
 *1:戦後まもなく神田で詩書編集に従事、後に思潮社を起業した。戦後詩編集の中枢部にいた人のようだ。
 *2:いずれ読みたいが、はてさて書庫にあるか?親父がきちんと整理分類していたが、何故か本棚に並んだ本がシャッフルされ、何がなんだか分からなくなったからだ。

「インテリとか大学の先生とか、新聞のほとんど全部、それから総合雑誌のかなりのもの、それらが安保反対、全面講和という論陣をはっていた。その時代、福田恆存のあり方が好きでした。勝手なことをいっているけれども、こちらのほうがよく分かる。それからもっというと、下町のおじさんやおばさんの感じていることとずいぶん違うのではないかと思っていたんです。ようするに反米でしかない。日米安保がなくなったらどうなる、全面講和ができなかったらどうなるか、ベストじゃなくてもベターというなら、理性的な意味ではこの道しかないんじゃないか、それに反対というのが非常に不可解でした。ある晩、有楽町の社屋を出たらフレンチデモと称して道いっぱいに広がって、手をつないで練り歩いているのを見て、その頃の大臣と同じで、なんてばかなことをやっている、阿呆だなと思いました。戦争中の体験でジャーナリズムがみんな揃うとやばいぞ、という思いが第一にあったんです。戦争中は「朝日新聞」からなにかから全部軍国主義。それとまったく同じで、違う論調の新聞が半分半分あるのなら分かるけど、こうなるとまずい。」

亡くなった親父と気があっていたという北村の心情が伺われる。荒地の中では安保に対する意見が真っ二つに割れていたのだ。そうだからと言っても、互いにののしりあうことは無かったようだが。

追記:茨木のり子の場合 2014/05/26

茨木のり子は安保反対としデモに参加した。「現代詩手帳」の中で小田の解釈だが、茨木は次のような反省をしているとのこと。
「…デモに参加したことは、行動というにはあまりにも単純な事柄だった。みずからの意志と責任で、歩道から列の中に一歩踏みだすということは「行動ではない」とも言いきれないけれども。…」
実は、私には全文を読んでも反省とも内省とも取れないので引用は一部にしておく。私の読解力はこの程度だ!

追記:鮎川信夫の弁 2014/05/26

後年の鮎川と菅谷規矩雄との対談で、

「僕が安保反対運動に反対だったのは、国益にみあわないからなんです。安保反対運動がもし成功して、安保を破棄してしまったら経済の復興はまず覚束なかったでしょう。そんなことをしたら国益に反しますよね」
さらに、
「例えば、基地反対運動も国益に反する。なぜなら、ヨーロッパの国々が米軍を置いておくことは、ソ連に占領されるのがもっと嫌いだからだ、ということが日本にはわかってない」

これを読んで普天間の問題が浮かんだ。普天間のみならず、米軍基地を全面撤去せよという沖縄住民の苦悩は理解できるが、もし全面撤去したらその途端に中国軍が上陸してくることは間違いない。その言い分は"沖縄開放"というスローガンだろう。チベットや新疆ウイグル自治区が漢民族の世界となったように。

追記:"戦後詩壇私史:小田久郎著"より2014/06/13

上記、小田の本に面白いことが書かれていたので追記しておく。なお、小田の安保に対する姿勢は「鮎川にならって右往左往する詩人たちの動きには距離を置いてながめていた」そうだ。

さて黒田は水道橋のトミー・グリルという所で『…詩人というのはそういう政治的な問題に対して反応が鈍いということなんですね。それで、詩人という奴は「戸袋の戸と同じで、いちばんあとからのこのこ出てきて、いちばん早くひっこんじゃう」と。そういうことじゃ駄目なんだ、もっと自覚をうながさなくちゃいけないんだ』とか言っていたそうだ。それを隣室で聞いていた鮎川は後日「黒田はぼくらの仲間の中ではどちらかというと元気のないことを言う名人だったんだけど、現代詩人会なんていうところでやると、こういうふうになるのかなという気がしたことがあるね。」とのこと。親父も「元気のないことを言う名人」にマークしていた!

追記:私の履歴書:古川貞二郎より 2015/03/06

波乱万丈的な人の場合は特にじっくり読むことが多いが、古川氏は60年安保のときにたった一度だが役所を抜け出してデモに参加したという。そういうご時世だったかどうかは分からないが、もしバレれば私が勤めていた会社だったら首だろう!古川氏の悔恨的記述によると「…改めて岸さんについて勉強し、あのような困難な状況での厳しい決断は将来への的確な見通しと不屈の信念がなければできなかっただろうと深く感銘を受けた。」とある。このような暴露が出来るのは、実績を上げ引退したからだ。誰でも長い会社生活では人に言えないようなこともあろうが、言わないほうが身のためである!
(荒地とは関係ないが、追記しておく。)
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