北村太郎の"記憶について"
誰しも、この世に生れ落ちて最初の記憶というのはあるだろう。それが何歳の時であれ!
●北村太郎の"記憶について" 2012/6/3

記憶について"すてきな人生"のなかで北村太郎は、「わたくしは自分をかなりの阿呆ではないかと思うことがよくある・・・」とあり、記憶力が弱いとある。本当に記憶力が弱ければ、詩作や翻訳などできようはずもないのだが。このエッセーは、幼児期の記憶について書いており、鮎川信夫は二歳のころのことを記述している云々、ある女性は三歳のころで云々とある。北村の場合は、6歳の時に昭和天皇の即位の祝典のことが最も古い記憶とのこと。誰でも最も古い記憶というのはあるだろうが、勿論記憶とは衰退するからドンドン喪失することになる。しかし心に残った最も古いものとなると意外と忘れないものだ。

私の場合の最も古い記憶は、足ふみミシンの周りを這い回っていたことだ。これは、生家でのこと隣の小母さんらしき人に声をかけられ、その小母さんには私より二三歳上の子供がいたことも覚えている。これは二、三歳の頃で、その頃引越し、それから高校を出るまで住んでいた家のことだが、妹が生まれた時のこと、隣の幼なじみの明美チャンと一緒にお袋のあられもない格好の出産風景を台所の土間から遠巻きに見物していたことを覚えている。これは四歳のことに間違いない。私と妹の年齢差は四歳だから。

ところで人の記憶というのは、実はかなりあいまいである。特に裁判などにおける証言は記憶に頼るものだから相当に危ない情報である。Yesと言うかNoと言うかで、生か死かとなることもあるからだ。素人参加の裁判員裁判になってからはこのことがかなり議論され、今も語られている。実のところ私に判定を下せと言われても、ただでさえ高い血圧が上がって気が狂うか脳溢血を発症するだろう。しかし、間違えた判決があっても裁判官や裁判員が罰せられたということは聞かないので、それなりにセーフティーネットがあるのだろう。但し誤審により死刑になったり長期間牢獄で呻いていた人は実に気の毒である。そういうことを踏まえれば死刑廃止論も一理あるが、私は死刑肯定論者である。死でもって償うべきと思う犯罪があるからだ。

但し、疑わしきは罰せず、絶対という証拠が無い限り有罪にならないようにしなければならないが、それは人が人を裁くかぎり無理だろう。検察は有罪にすることが仕事だしそうなればその検察官に成果があったと判断されるだろうから。一方、弁護士は例えとんでもない犯罪人を弁護することになろうが、量刑を少しでも減らすことが仕事だから。そもそも万能の人は、世に存在し得ないのだ。我が国の死刑存在理由は、凶悪犯罪撲滅を目指したものだろう。北村太郎氏の"すてきな人生"とは連関の無い話になってしまった!
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