現代詩手帳1993JULY

戦後の詩人では、誰が一番かという話なのですが・・・。
●現代詩手帳1993JULY 2013/03/20

この雑誌の「不実の美女」というエッセーに「かつて北村太郎は田村隆一を指して大袈裟でなく"ノーベル賞をもらってもおかしくない詩人だ"と言ったそうだ・・・」と記述されている。筆者は、田村隆一がそうなら彼が心酔する谷川俊太郎もそうだろうと言っているのだ。私には勿論田村も谷川も戦後の代表的な詩人だと思うが、文学的素養の無い私には詩のレベルについては評価のしようも無い。ただ、田村が元気だった頃の話だが私がNHKを見ていると彼の日々の生活などを披露していた。その時インタビューに起用された若い女性(恐らく大学1年生くらい)に田村は「貴方は陰毛が生えているか?」と聞いたのには驚いた。まあ、田村はTVに対してサービスをしたつもりだろうが、少々限界を超えていると私には感じた。

ノーベル賞と陰毛とは何の相関も無いと思うが、田村は自分に寄ってくる人(勿論TVにも)にそれなりのサービスをするという才能があるようだ。恐らく、「こんなこと言うと驚くだろうな」という彼なりの演技でありジョークなんだろう。これが不愉快だと感じる人は田村に会う資格は無いと思う。彼はそういう人で、それが詩に反映されていて、私の親爺も「田村の奴!あいつは」と非難していたが、結局彼のことが好きだったのではないだろうかと思う。結局、死んだ人は皆さん仏さんになり、残った人はその人を偲ぶことになるからだろう。そして私も死を恐れながらも最後は死ぬことになるからだ。私のみならず全人類が!

さてこのエッセーでは、戦後の詩人として谷川を頂点として、それ以外に育ってないと言っている。私には詩に対する見識は殆ど無きに等しいが、確かに谷川以外に戦後の詩人として一般的に認識されている人は無い。最近の国語の教科書を読んだことは勿論無いが、詩人として誰が出ているのだろうか?このエッセーで認識される詩人とは、マスコミに乗った人だろうが、殆どの場合数年でその露出場面は消滅する。マスコミと本当の価値とは恐らく異なるものなのだろう。今後は出版、放送、インターネットで認識され、評価され、あるレベルでデータが蓄積された人が現代の詩人として記憶されるのだろう。谷川俊太郎を超える人は出てくるのだろうか?

今は、詩を書く人全員に発表の場があり、小説を書く人も同様である。インターネットは活字出版を超えつつあり、むしろ超えるというより新たな場を提供した。全ての人類に表現・発表の場を提供しているのだから、今後は直木賞や芥川賞を目指すというのでなく次から次に活字が電子情報として提供されることになる。エントリーを待つのでなく、皆が活字空間全体にそして隙間も探してさまようことになろう。誰かオーソリティが決めるのでなく、多くの大衆が集まるところ(物理的、電気的な)が面白いところであり、価値あるところになるのではないだろうか?満員電車の中でスマホを使って小説を読むことは、もう日常なのだから!単に私の夢想ではないだろう。
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