工場実習

当時、殆どの大企業では工場実習がトレンドでした。私はと言えば、正直申しますと、クラブ活動気分でした。

追記: 2015/05/20

吉永氏が工場実習で頑張っていた頃、私は電子交換機ソフトの開発部隊で悩ましい日々を過ごしていました。思い出したくないことが多かった日々でしたが。
●工場実習 2013/05/14

日経夕刊(2013/05/14)の富士重工業社長吉永泰之氏のエッセー「ひとと違う道を行こうよ」に入社時の工場実習の話が出ている。吉永氏は1977年入社だが、私の富士通入社は1973年である。富士重工業の場合大卒新入社員は10月1日付け配属とのことだから、丁度入社半年後に配属されるという、私が入社した富士通とほぼ同様の制度だった。これを読むと当時の大卒新入は、製造業に係る限り半年間は製造現場の大変さを経験(修行)させるトレンドだったようだ!吉永氏はその後、生産部工務課に配属され、1年半フォークリフトのオペレータをやらされたそうだ。

確かに、フォークリフトで部品を配布することは工務課の仕事ではあるが、これを大卒にやらせる会社は今時無いだろう。工務課に配属されてからもある種の"修行"をやらされたということだ。このエッセーの肝は、彼の同僚の言う「おれは中卒のしがない工員だが、この給料で息子を大学に行かせた。吉永君が偉くなった時、現場でこういう仕事をして頑張っている奴が、会社を支えているということを覚えておいてくれよ」だろう。多くの製造業・・・多くでなく、全ての会社では社長のみが仕事をしているのでなく、全ての社員が仕事をしているのだ。勿論、これは理屈でなく皆分かっている。但し、エッあの方が社長?と思うこともしばしばあるが!

私の場合、富士通入社時、交換機のリレー製造工場と無線機の試験課での工場実習をそれぞれ3ケ月課された。当時富士通はコンピュータ事業が急成長しており毎年600人以上の大卒を採り、我々は数人から数十人にグループ分けされ、全国の工場にバラバラに配属された。川崎工場リレー製造現場の場合は、何百人もの女性工員と一緒にリレーを組み立てるのだが、全てが手作りだった。ネジ、ハトメ、端子、磁石、コイルなどはどこかの工場でパッコンパッコンと自動的に作られていたと思うが、それらの部品を製造ラインに並んだ工員が流れ作業で組み立てることが仕事だった。私の役目は小さいプリント基板の穴にハトメをかしめることである。非常に原始的なかしめ装置に向かって右手で穴にハトメを入れ、左手でレバーを引いてかしめること、これをギッコンバッタン朝から晩までやるわけだから修行以外の何物でもない。会社側の意図は、現場の工員はこんなに苦労しているのだと、将来の幹部社員として採用した大卒新入社員に叩き込む訳である。私はといえば、こんなに馬鹿げたことをやってられないと件の装置に自前のニッパーやドライバなどを黙って持ち込み少々細工することで手抜き(生産物は完璧だが、安全性に少々問題があった)をし、他の誰よりも生産性をあげていたのだが、意地悪な職長(現場の責任者)に細工を見つかって思いっきりとっちめられた。鼻歌交じりに遊んでいるようだが、なぜか生産性が高いので監視されていたようだ。恐らく、業務態度最悪との報告書が人事に提出されただろう。

入社初日は入社式だが場所がどこだったか、社長が何を喋ったかどうにも思い出せない。恐らく川崎工場の直ぐそばの中原会館であろう。その後、工場実習のクラス分けがあり、そのまま数十人のグループで西3番館にあった上記の交換機工場に送り込まれたと思う。工場実習で知り合った人で、米国でベンチャーを経営する今でも付き合いがある友人もいる。一方、その後二度と会ってない方も大勢いる。親しくなったある女性が、「この仕事は単純で面白くないけど、機械が相手だからうっとうしい人間関係が無いのが良い」と言っていた。美しい人で、既婚だった。一般論として、美人には嫉妬する人や、汚いハエもたかるからだ!この頃は、学校から社会に出たばかりだったので、オッと思うことを見聞きすることが多々あった。今となっては人間社会に於けるごく普通の出来事だが、若年見習い新入社員の私には全てが新鮮かつ驚きだった。

追記:「日経こころの玉手箱」より 2015/05/20

「日経こころの玉手箱」に富士重工業吉永泰之社長の連載が始まった、このカラムに上記に引用した吉永氏の手記が出ているので記載しておく。

…会ったのは1977年夏の1日だけだ。

休憩の時だったか、作業中に「お兄ちゃん、大学出てこの会社入ったんだってなあ。おれは中学しか出ていない。でも何十年もここにいて、子供を大学に行かせた。それがおれの誇りだ」と話してくれた。

「はあ」と応じると、話は続く。「この会社はあまり給料が高くなかったけど、つぶれないで、給料をもらい続けられた。お兄ちゃんは大学出だったら、偉くなるんだろうな」

恐らく、彼が知る一番偉い人は…

とある。前回の内容と少々ニュアンスが異なるので再度引用した。現在富士重工業の業績は絶好調で社長の吉永氏の心境も少々変わったのかも知れない。前回のエッセーとは少々脈絡が変わり、安定した会社、潰れない会社という趣旨だが、全ての会社がそれに加えて成長をも目指しているのだ。しかし、歴史を振り返れば栄華は続かずある日突然死などという例もある。一般論として現在の自動車業界は大手に収斂しつつあると言える。自動車産業はマーケットサイズが大きく、商品である車はマスプロダクションのメリットを最も受けやすいからだ。

一方、自動車業界の今後は、自動車用電池の改善が進みそれが臨界点を超えると、ある日突然バタバタとガソリンスタンドが閉鎖することになる。しかし、例えば「長距離移動の場合、電気補給(充電)はどうするのだ?」との意見もあろうが、それもアイディア次第でどうとでも解決できる。電池セルスタンドなどどうだろうか?10Kg程度の電池(セル)の入れ替えで現在のガソリン補充よりも簡単かつ安全に燃料補給ができよう。ちょっとした電池の性能改善がとてつもない業界再編をもたらすことになる。実は、我が社もこの混乱の起きる前に関連する特許を押さえたいと考えている。但し、夢は無限だが、資源(頭脳)には限りがある。そんなアイディアは「全てトヨタ自動車の研究所にあるさ」などとも言われかねないが?
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