初めての海外

趣味でアマチュア無線をやっていたことから、少々英会話ができました。雑音の中から情報を取り出すことは、結果的に耳が良くなったということでしょう。
●初めての海外 2013/07/30

初めての海外は、社会に出て2年目の1974年だった。たまたま担当していた仕事で、若輩の私がソフト担当として出張することになってしまった。恐らく外人アレルギーが無く、少々英語ができたからという理由だろう。米国のCOMSATという会社からの受注で、衛星通信地上局をリアルタイムで診断監視するというシステムだった。今考えれば技術的には大したものではないが、当時はまだマイクロコンピュータが世に出たばかりでセンサーから何から全て一から作りこんだ。勿論、基本仕様はCOMSAT側から提示されたが、どう作るかは我が社にゆだねられていた。但し、使うコンピュータはCOMSAT社が指定したVARIANという米国製ミニコンピュータで、我々富士通の技術者には全くなじみが無いものだった。しかし、私の周辺の優秀な技術者達は直ぐに使いこなした。但し私はと言えば、そもそもプログラミングが大嫌いときていたから、先輩方からバカにされながら一から教えていただく日々だった。

そうこうするうちに、システムもほぼ完成しCOMSAT社からインプラントテストのために担当エンジニア:シーバー氏がやってきた。話し好きの面白い人でテスト中は退屈しなかった。彼の話で印象に残っていることは、サンフランシスコからニューヨークまで一人で車を運転し2日で行ったこと。それと、まだ良く喋れないお子さんがおり、"ダディーはジャーパンに"と言い、Japanをうまく発音出来ないことを聞いた。彼の言い方だと、"Dadddy is in Jaaapan."というような感じだった。英語にも幼児語的なものがあることを初めて知った。時々国際電話があって、優しい親爺トークを息子と楽しんでいた。テストは2週間くらいかかったと思うが、実際の地上局の故障状態を再現するために、彼の提案でビッグスイッチというものを作った。全てのセンサーの端子に多端子スイッチをつけて一気にオン・オフするのだ。このスイッチでオン・オフを繰り返すことで高負荷のデータを生成し、システム容量や反応をチェックしたのだ。なかなかのアイディアマンだった。

テストの途中で、色々と不具合が見つかり徹夜の日々が続いた。しかし、私はと言えば自身が作ったプログラム以外には、全く手が出なかった。つまり、全体を見渡して問題点を指摘解決するなどというレベルにはなかったのだ。結局全体的には、ハードはMさん、ソフトはTさんというベテラン技術者に依存することになった。このような状況の中、2週間くらいでまずはOKとなり、最終的な梱包となるのである。百キロ以上の19インチラック1台と、これも百キロくらいだったろうミニコンピュータ一式だった。当時のミニコンは、本体、テレタイプ社の紙テープ読み込み装置付きタイプライタだった。実は、磁気テープ装置もあったのだが、これは納品物件となってなかった。COMSAT社にも何台もの同装置があったからだ。梱包は薄い杉の木の板で組み立てられた木箱だった。こんなもので米国まで行くのかと思ったが、案の定かの地メリーランド州ベセスダのComsat研究所に着いてみたら木枠が壊れていた!

これからが、大変な日々だった。庄司課長によると「楽勝の仕事、1週間で設置・試験が終わり、後は予備だ遊んでこい」とのことだった。ところが、梱包が壊れていたことから、保険会社の査定員のチェックを受け、なんだかんだでスタートは数日遅れ、さらにやっと設定したが、ちょうど一晩くらい経つとシステムダウンする。西も東も分からず、技術者として未熟な私にとっては、少々お寒い感覚から逃れることができなかった。そもそもソフトに関する技術力は素人に毛が生えた程度だったのだ。話せば長い最初の海外だったが、結局ソフトのバグは天才土田さんが原因究明、既にハードは米国にあったのでソースコードのみを頼りに熟考2週間くらい、それも私が作りこんだバグだったのだ!この修正は終わったが、なおも原因不明のシステムダウンが続いた。その頃、1ヶ月も経っていたが、未熟な私に帰還命令が出てどうにか帰って来ることができた。ハード担当の佐藤さんはこの原因不明のシステムダウン解消のためさらに一ヶ月奮闘し、最終納品にこぎつけた。「地球の裏側にあっても仲間(上司)が助けてくれた」という貴重な経験で、私のその後の開発シーンではどのような困難に出くわしても、最後は皆でということに努めた。これがうまくいかず宇部興産を担当するシステムエンジニアだったある友人は20億の負債を抱え自ら命を絶った。東大を出ているのに気取ったところなどなくいい奴だったが、何かの拍子にボタンを掛け違えたようだ。メキシコに遊学するなど面白い経歴逸話も多々あり、ハンサムな男だった。
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