コムサットのこと

何事も初めての事は記憶に留まっているでしょう。幼児期の憧れだった海外へのプロローグです。


●コムサットのこと 2014/1/10

生まれて初めて外国に行くこととなった。富士通に入社二年目1974年8月の終わり頃のことだ。入社一年目配属された衛星通信研究部はニクソンショックによる物価上昇などに翻弄され、組織解散の憂き目となった。私は当時所属していた衛星通信第三研究室:人工衛星の軌道計算システムの研究グループから衛星通信のハードウェア開発部門に異動したい旨の希望を出した。第三研究室長の小坂さんからは、何度か「真意か?」との打診があったが、私のハードウェアへの憧れが受け入れられ異動することとなった。やがて軌道計算グループは大田区蒲田のシステムラボラトリに移転して行った。なお、ソフトグループから逃げ出したい理由はもう一つあったが、それは別記しよう。

衛星通信技術部に転部早々、伊藤部長は「鎌田君にはマイコン(*)をやってもらう」と仰った。当時マイコンが何かは私には実は良く分かってなかったが、部長は世にでたばかりのワンチップマイコンを衛星に乗せることをお考えだった。マイコンともなるとソフトが出来なければ話にならない。運の良いことに、その時点でソフト部隊がシステムラボラトリへ行ってしまったので私がソフトに最も近いポジションにいたのだ!しかし、以下の仕事が始まると悲しいことに私の実力では何の意味もないことだった。もっとも部長は私の実力をきちんと把握していたが「バカな奴だけど少しはやる気を出してくれるかな」というマネジメントとしての励ましのお言葉だったことは間違いない。思い返すと、恥ずかしさが込み上げてくる。
 *: Micro Computerの略で、My Computerでは無い!ちなみにパソコンとはPersonal Computerの略で米国ではPCといい、西和彦氏の造語とのこと。)

その頃、富士通は米国コムサット社から衛星通信地上局監視システムを作るという仕事を受注した。実は、その数年前から富士通はコムサット社に研究員を送り込み米国の最新衛星通信事情をリサーチしていた。リサーチと言えば聞こえがいいが、米国の事情を教えてもらうというようなスタンスだったのだろうと思う。実際に富士通とコムサットの技術を醸成した製品は無かった。しかし、当時の衛星通信技術部では回路設計や軌道計算では世界レベルにあったことは間違いない。富士通の技術を基に、衛星は飛翔し、通信装置も稼動していた。勿論、日電は規模的にその上を行っていただろうが。

この地上局監視システムを作るチームが結成され、私はそこに投入された。このシステムのソフト部分を担当することになるのだが、軌道計算グループの熟練エンジニア慶応ボーイのハンサムな松岡(*)さんがソフトのリーダとして暫定的に留め置かれ、優秀な外注会社が開発の核となり、私は末席を汚すこととなった。このチームではアセンブラの面白さを十分に堪能させてもらった。ソフトウェアとは何であるかも完全に理解できた。周りの人全員がエキスパートで、何を聞いても全て教えてもらえたからだ。この仕事でコンピュータにのめり込むことになり、現在の自分がある。電気回路で実現していたことの多くが、コンピュータでも実現できることも分かった。ただ当時のコンピュータはかなりプリミティブで、今の専用マイコンやPC用CPUから比べても雲泥の差がある。このシステムは紆余曲折があったが、どうにか納品レベルになり、その納品テストに末席の私と、ハード担当の4年先輩佐藤さんが現地に行くことになった。長い話になるので、別途記述した。
 *:松岡さんのウェブサイトは当サイトの最後にリンクした。
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