私の技術志向と発明

技術者ならば誰でもその実績を記述することはできると思います。私の場合は、特許くらいしか足跡としてありませんが!
●私の技術志向と発明 2012/10/7

私の長い会社生活での中心技術はソフトウェアだったが、好き嫌いで言えばハードウェアエンジニアになりたかった。社会に出て、最初の配属先として、研究所勤務となり衛星通信研究部の軌道計算部隊に配属された。学校ではもっぱら回路技術の勉強に精を出し、今で言うフェーズドロックループのようなことを考案し、修士論文にも書いた。指導教官の木戸栄治教授(*)からは特許に出せと言われながら、結局物にならず特許レベルまでも行かなかった。今では、当時一所懸命考えていた夢のような回路が一個数十円のLSIに集積されて、実際の回路設計にかかる手間も当時からすると実に簡単になった。こういうことができればいいと思うことがあると、殆どのことが回路技術(ハード)とソフトの組み合わせで簡単にできる。私が大学生の時にニール・アームストロング氏が月面に降り立った。当時の米国の電子技術は他を圧していたが、実際に宇宙船に搭載された機器をフロリダの博物館で見たとき、明らかに冒険であり、故障したらどうするのだとゾッとするような代物だった。
*: 先生が亡くなりかなり経って知ったのだが、木戸孝允/桂小五郎の直系とのこと。それを知ってから、生前にお聞きしておけばと思った。

上述のように入社時は純粋ソフトの仕事だったが、二年目には希望するハード部隊に配属になった。実は不況によりソフト部隊が研究所から都内のソフト開発拠点の実務部隊に組み込まれたのだ。勿論私も上司の小坂課長から転属を打診されたが、ハードウェアへの想い絶ちがたく研究所への残存を望んだ。二年目の始めは伊藤部長から「鎌田君はソフトの経験があるからマイコンをやってもらう」と言われた。当時、ワンチップマイコンが出現し、いち早く当部でも活用を考えていたことは、今になって思い返しても先を読む技術展開ができる上司や同僚に囲まれ、素晴しい指導を受けていた。なお、部長はマイコンを飛翔体つまりロケットや人工衛星に搭載するということを考えていた。これは1974年のことで、部長は私の目の前に座っていて「鎌田君、ソフトは任せるから頑張ってくれよ」と仰った。実に鷹揚な人だ、私がそれほどにまで信頼できるレベルの技術力なんて持ってなかったのは分かっていたはずだが、バカな奴だがどうにか使ってやりたいというリップサービスだったのだろう。立派な上司だった。

会社は人材の育成登用能力にその将来があり、そもそも人事戦略とはいかに出来の悪い人材を効率よく使うかということだと思う。もともと能力高く、やる気ムンムンの人に人事管理なんて不要だ。私のように能力気力供にレベル以下の人材をどう使うかというのは人事の天才でも難題だが、どうにか定年近くまで使っていただけたことは今でも上司や同僚に感謝している。私の間近にいた上司は、私を見て皆さんハラハラしていたことは間違いない。私自身も部下を抱えた際には、それなりに不安だった。それでも私の能力が大変低かったから、まず部下に任せるつまりお願いするしかないということだった。結果的に、上司の私がボケているから気を抜けないと優秀な素質を持つ部下はさらに頑張り、全員立派な技術者になった。

その結果として、技術者としてマネジメントとして最も結果を出すべき40代に残せたものは特許だった。私が考案したソフトのオンラインアップデートは、ビジネス的には結果を残せなかった。しかし、WindowsUpdateやインターネットで実施される各社のオンラインアップデートに適用されている。パソコン通信がスタートした頃に考案したことが、インターネットと常時接続高速回線により思ったとおりの結果となったことは技術者冥利に尽きる。当時そんなことは回線速度が遅くて無理だとかフロッピーディスク配布で十分という多くの抵抗勢力を抑え、劣悪なインフラにも関わらず将来を見越して開発し特許申請したことが吉と出た。この開発を影に日向に支えてくれた上司の古河さんには今でも頭が上がらない。
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