松下秀男先生の思い出2

子供の頃、暖かくなると手漕ぎの船で先生と親父と私の三人でよく釣りをしたものです。当時はベラやキスなど、十分におかずになる量が釣れました。
松下秀男先生の思い出 2013/4/3

私が高校のとき英語を教えてくれた松下先生は、一兵卒として出征しようやく戦争を生き抜き元の職場である大蔵省に復帰したはいいが、戦時中の無理がたたり肺結核で休職・退職を余儀なくされ、最後にたどり着いたのが高校教師だった。なぜ教師になったかというと、先生と親しかった親父の談によると当時三本松高校の英語教師だった藤村氏が先生に対して、「汝税関使になることなかれ」と聖書に書いているよと言った事だったそうだ。先生は当時高松税務署に勤務していたのだ。先生がキリスト教にどの程度造詣があったか知らないが、自ら師と仰ぐ南原繁氏が無教会派のクリスチャンだったことも影響したのかも知れない。

松下先生は、戦時中は戦車兵だったが、東大卒が軍曹氏のお気に召さないようで、何度も難癖をつけられて殴られたという。その殴られ方は、右耳が難聴になり、視力障害も生じ片目になるなど、尋常ではなかったそうだ。軍隊という不条理な世界では、自分より弱い者がある強みを持っていると"いじめ"の対象になりがちだ。幼稚園児が、年長にいじめられ年少をいじめるという構図だろう。気の毒なことに先生は生涯強度の乱視矯正メガネは手放せなかった。おまけに結核になり、戦後は片肺を取る大手術を実の弟さんが執刀するが、抗生物質に救われたとのこと。先生と親父とは大変仲が良く、時々我が家に来て互いに大声で話していた。「今夜は東讃(*)で最も高尚な話が行われたことは間違いない」と互いに悦に入っていた。但し、そういう日は大体において酒が入っていた。書き物でもしておけば良かったのにとも思うが、次の日になると完全にクリアーされただろう。
 *: 香川県(讃岐)の東部域

親父には、松下先生に対して頭が上がらない出来事があった。当時住んでいた茅葺の我が家は村で最も小さい家だったが、先生はこの家を買う資金を貸与してくれたのだ。終戦直後の食糧不足と金欠病にあえいでいた親父は、この家が売りに出ていることを知ったがどうにも資金を工面できなかった。ところが、ある日突然松下先生が現金3万円を風呂敷に包んで「使ってくれ」と持ってきたという。職場の同僚だったので、何かの話の折に職員室で売り家のことが話題になったのかも知れない。当時の3万円の価値はというと、電蓄と言われた最新型アンプ付レコードプレーヤーの価格だったそうだ。持つべきものは友である。

松下先生は、"わが師は南原繁"と言ってはばからなかった。私が高校生の時、南原繁氏が母校の三本松高校(旧制大川中学校)で講演をしたことがある。私はご多分に漏れず内容を全く覚えてないが、書物として残っている。松下先生は、いつも南原氏の側にいて万一倒れるようなことがあっても直ぐに支えられるようにという姿勢だった。当時南原氏は70をはるかに超え、大病が癒えたところでもあり、生涯最後の講演旅行だった。白髪の老紳士で私が南原氏を目にしたのは最初にして最後だった。この人が内村鑑三や新渡戸稲造から直接教えを請うていたかと思うと感動した。蛇足だが、私の祖父は白鳥高等小学校で南原氏と同じクラスだった。片や東大総長、片や小学校教師だった祖父は、毎年律儀に送られてくる南原氏からの賀状を楽しみにしていた。南原氏が亡くなる前年祖父は亡くなった。祖父も良き友を持っていたのだろう。
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