鎌田勤さんの思い出(徴兵編)2

優しい小父さんでした。親爺よりもある意味優しかったような気がします。ただ、ヤクザにもビビらない強烈な人でした。
●鎌田勤さんの想いで(徴兵編) 2013/07/22

鎌田勤さんは、親父の親友で終戦後漁港の側で漁船向け電装整備を生業としていた。私が実家にいた小中高を通じて、親父はほぼ毎土曜の夜勤さん宅(*)に行くか、彼がこちらに来るかの間柄だった。いつも会うから話だけでは間が持たず、親父が将棋を教えたのだ。頭脳明晰で勝負勘のある勤さんは直ぐに良い相手になった。そのうち、勤さんの直ぐ側に住む、ヤンマーのエンジンを取り扱っていた私の同級生だった米田の親父さんに勤さんが将棋を教え、あっという間に好敵手となった。同年代の小父さんたちが、毎週末数十年間将棋をやっていたのだ!お袋は「あれだけ会っていて、よく話があるものだ」と言っていた。親父は、土曜日の晩飯が終わるとさていつ出かけるかとソワソワし始めるのだった!
 *: この建物が、現在私が経営する会社の事務所となっている。

さて勤さんだが、波乱万丈面白い話は多々あって、書ける事と、書いてはいけない事がある。彼は、私のことをすぐ近くに住む親友の息子だから自分の息子のように可愛がってくれた。私がUコンのエンジン飛行機を作ったというと、新品のバッテリーをくれるし、私の趣味がアマチュア無線に転向した時には、手元にあった真空管を菓子箱一杯くれた。私が高校3年の時、友人から借りたギターを抱えて自転車で走っていたときには、停められて「紳ちゃんギターなんか弾いていていいのか?」とお勉強しろと諭された。彼は旧制高商出身のインテリだったが、趣味の電気が高じて漁船の電装がビジネスとなったのだ。

ある時戦前の話になり「赤紙が来たときだけど!」には非常に驚いた。赤紙はあの世への招待状で、軍隊の不条理を知らない人はいなかった。二十歳になった勤さんにもいよいよその時が来て、丸亀連隊に兵隊検査に行ったそうだ。一連の検査が終了し全員連隊長の前に整列させられた際に、連隊長が「この中に入隊したくないものがあれば前に出よ!」と言ったそうだ。その際、勤さん一人が前に出たとのこと。全員の前でおもいっきり殴られたのだろうと思いきや、連隊長は「なぜだ?」とのこと。勤さんは「母一人子一人の母子家庭で、自分が死ぬと母の面倒をみる人がない」と答えたところ、その場で連隊長から「除隊!」との命令。さぞかし周囲の新兵さんたちは悔しがっただろう。この連隊長はなかなかの逸材である。最初に兵として最も使えない者を抽出したのだから!勤さんは死ぬまでわが道を行く人だったし、何をしでかすか分からない不気味さも秘めていた。終戦後の最も血気さかんな頃、町のヤクザも一目置く存在だった。町で有名だった"玄ちゃん"という若いヤクザを、勤さんは自分の店で一時期面倒を見ていた。玄ちゃんは勤さんの遠い親戚という話だが、とても電気の素養があったとは思えなく、いつもブラブラしていた。

玄ちゃんが我が町から遠く離れた松山市のヤクザの本拠地にドスを持って殴りこみに行った話しは、伝説のように町内に伝わっている。親爺も直接玄ちゃんにこの話を聞いたところ、さすがの玄ちゃんでも敵対する親分の前に出たとき周りを手下に囲まれて震えたそうだ。どうにか殺傷事件にならずその場は収まったそうだが、玄ちゃんは少々知恵遅れ的な面があったから、恐怖心が並みの人より少なかったのではないだろうか。但し、身体と面構えは勤さんを一回り大きくした感じで威風堂々、軍隊に行けばいい兵士になっただろうが、彼が成人した時点で既に戦争は終わっていた。玄ちゃんが年をとり彼のお母さんも亡くなり誰も彼の面倒を見る人がいなくなったころ、我が家に無心に来たことがあり、親爺はこれだけだよといって幾ばくかの小遣いを与えたが、その後は癖になるから一切与えなかったとのこと。彼の気配がすると、玄関の戸を閉め息を潜めていたそうだ。
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