鎌田勤さんの想いで(特許編)2

技術に関係する仕事をしたことがある人でしたら、誰でも"こんなことが出来たらよい"と思ったことがあるでしょう。勤さんの特許を思い出しました。
●鎌田勤さんの想いで(特許編)2 2013/08/17

鎌田勤さんは親父の親友で、戦後は三本松漁港で漁船の電装を生業としていた。別のエッセーでも記述したが、彼は旧制高松高商出身で技術には関わりないように思える。ところが、数学や物理が大好きだったのだ。親父は勤さんが我が家に遊びに来ると「何かわからないことがあれば勤さんに聞け」と言っていた。実は親父は数学がからっきしダメだったのだ。勤さんは強度の色盲で、交通信号は全て同じ色に見えるとのことだった。それゆえ、当時は理系に進学できなかったのだ。今では、このような差別は無い。色盲だと何が問題かと言えば、化学反応はまずは色にて判断だし、電気配線や抵抗値も色分けがなければ大混乱だろう。技術に関して色分けを間違えると命取りなのだ。今では、色盲に関しては運転免許くらいの制限しかないだろう。彼が、今に生きていれば、間違いなく技術系に進んだだろう。

私が子供の頃だが、勤さんは漁船の電装をやりながら、モーターと発電機の可逆性が特許にならないかと真剣に考えていた。実はその技術は周知のことで、ハイブリッド自動車の代表的技術はこれである。ところで我が町は辺境地帯にあり、当時はPCもインターネットも無く、特許のデータベースにアクセスすることなど不可能だった。今はいい時代になったものだ。インターネットで全ての情報が閲覧できるのだ。私が、会社に入って数年目くらいのころカーラジオに関してあるアイディアを思いついたことがある。それで休日には国会図書館に行って過去の特許ファイルをうんうん言いながら閲覧していた。ふと周りを見ると、十数人の小父さん達が、やはりウンウン言いながらペラペラと特許ファイルをめくっていた。当時の弁理士の仕事は、特許ファイルをめくり同様の特許が出てないか調べることだったのだ!彼らを見て、「俺にはこの仕事は無理だな」と思った。なお、当時私が思いついたことは既に日立製作所から出願(*)されていてガックリ!
 *: スピードが出てエンジン音などが高くなるとカーラジオが聞こえ辛くなるので、周辺ノイズの音量に応じてカーラジオの音量を調整すること。特許に関する私自身の幾多の経験では、ふと思いついたようなことはほぼ間違いなく出願されていると考えてよい。

さて、勤さんの特許に関し、私が通っていた高校で理科を教えていた間島先生も巻き込まれていた。技術の完成と特許の成立で、大金持ちになれるという夢もあり皆のテンションは上昇の一途だった。その後、特許出願を依頼していた大阪の特許事務所から類似特許有という連絡があり、このブームは一気に去った。真夏の夜の夢のごとく周辺の人たちまでをも熱狂させた楽しいひとこまだった。技術に不明な親父までもが、「モーターが逆転して発電機になるんだって!」とのたまうていた。電気を勉強したことのある人にとってみれば、そんなの常識だろうと言ってしまえばそれまでだが!奥さんの幽久子さんからも「あの頃は朝から晩まで特許々々だった」という言を何度か聞いたことがある。

勤さんの特許熱が醒めた頃から、日本の漁業は拡大の一途だった。事務所(*)は手狭になり国道沿いの大きい店舗に展開し、商圏も三本松港から香川県全体へ、そして瀬戸内海全体へとどんどん広げていった。レーダーや魚探など個別機器の売上げでも、県下では勿論トップだったようだ。あるとき、勤さんの片腕だった古井さんがボストンに常駐するという。四国の片田舎の弱小電装業者がボストンに支店を出したのだ!私にとってみれば「エー!」としか言いようが無かったが、当時は日本の漁師が世界中に遠征していた。勤さんのビジネスも瀬戸内海から大西洋まで拡大したのだ!当時は沿岸3海里を除き全ての海は公海で、海のハンター達の戦いの場だった。そういう中で、日本人漁師は勤勉と勇気と最新漁具と電子機器を武器に世界中に遠征していた。我が故郷には津田という町に漁業無線局があって、鮭鱒、秋刀魚、マグロと北洋から南洋まで世界中に遠征した漁船と交信していたが、今はもう無い。当時、米国の電装業者は地元の漁師を保護し、日本の漁船を修理してくれないので、勤さんのボストンのビジネスが成り立ったのだ。この夢のようなビジネスもある日突然"200海里"により一気に崩壊し、日本の漁業は農業同様いまだ縮小均衡を抜け出せない。
 *: この事務所が、現在の当社社屋である!私も勤さんの後追いをしてボストンに支店を出せるくらいになりたいが?
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