大野薫さんの想いで2

筆の立つ特異な人で、様々なことに手を出し、英語も堪能、マルチタレントそのものの人でした。
●大野薫さんの想いで 2013/04/20

古い雑誌だが"Surfing湘南2003No.001"に大野薫さんの追悼録が出ていた。彼との出会いは1980年代初頭だったと思うが、その年の真夏に世界サーフィン大会が三重県の南張という海岸で行われた。しかし全く波が立たず、開催できない状態が続いた。ハワイ、オーストラリア、アメリカなどから来た選手達は近くの国府の浜というところでトレーニングをしていた。その時たまたま私はお盆の休みとなり実家のある四国に、川崎から三重経由でサーフィン大会を見物して帰ることにした。その日、国府の浜の食堂の前で海を見ていると、ベン・アイパがサーフボードを抱えて海から上がってきた。ハワイで彼を見たことはあったが、その時始めてベンと話した。若い頃半年程ハワイに住んでいたことがあるが、ワイキキのクイーンズというポイントで行われたローカルサーフィン大会で彼を見かけたことがあったのだ!

ベンに話しかけると私の車を見て「どこに移住するのだ?」と彼特有のジョークで聞いてきた!当時私はマツダのRX7という車に乗っていたが、自作の不細工な大きいボードキャリアをつけて、ハッチバックを改造して大きくしたトランクにたくさんの荷物を積んでいたからだ!いきなり話題は彷彿、彼のビジネスパートナーの林さん(*)や大野さんの話しとなった。程なく大野さんが海から上がってきたが、当時彼はジープを押しつぶしたような形の英国車に乗っていた。彼はあらゆることに派手な人で、なにかにつけ目立っていた。その後七里ガ浜で何度も会ったが、彼がサーフィンを始めると、とにかくいい波は全部彼にもっていかれ、なおかつ大声で叫びながら周りを圧倒するのだ。
 *: Hokuleaというサーフショップを鵠沼でやっている。この名前はベンがつけたとのことを林さんから聞いた!

ある日、友人の写真家でサーファーの横山泰介さんと話していて、大野薫さんの体調がおかしくなったのは鎌倉の横山さんの家で飲んだ時のことだと聞いた。横山さんが大野さんと親しかったことは最初から知っていたが、同じ高校の先輩後輩だったという関係までは知らなかった。そもそもサーファーは波以外に興味が無いから、他人の詮索などしないのだ。私の定義だと、「リアル・サーファーは波のエネルギーに調和しながら刹那的喜びに人生を賭けている」と言えよう。この定義からすると、私自身はリアル・サーファーとは言えないが、そのような性向が多少あることは否めない。深く考え、いつも細かく軌道修正し、着陸点に一ミリもずれないように人生をまとめあげるという人はサーファーになれない!

ところで、私はサーファーの中では異端で、ファッションやビーチガールなどお呼びでない部類に属している。だから多くの人は、私の趣味がサーフィンだと聞くとネットサーフィンと思うだろう。長い会社生活で、私がサーフィンをやっていることを知っていた同僚はたった一人で、彼を七里ガ浜に連れていったことがあるからだ。私が初めてサーフィンをしたのはハワイのノースショアのサンセットビーチで、その時は全くサーフィンにならず、本当に死ぬかと思った!その後数十年経つが今でも、例え真冬でも、いい波が立ち仕事を休める場合は、海に向かっている。ただ、私が若い頃からいきつけの七里ガ浜でサーフィンをしていた人達の多くが海に来なくなり、知り合いの何人かはあの世に行ってしまったことが悲しい。
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