兼松一先生の想いで

兼松先生は釣具屋をやっていましたが、小学校教師だった祖父は小さな文具屋をやっていました。当時の先生の引退後は年金だけでは食っていけなかったようです。
●兼松一先生の想いで 2014/8/2

兼松一先生は母校三本松高校の数学担当で、定年退職後は釣具屋をやっていた。丁度親父くらいの年齢だったこともあり、親父とも気が合っていた。先生が釣具屋をたたむ際に親父は竹製の釣竿を数本もらってきて、今も親父の形見として私が持っている。私が就職する頃までは学校の先生は安月給つまり貧乏が定番だった。当時の先生や村役場勤めは安定した職だが、給与は低く清貧競争の代表選手だった。昨今の公務員志向は当時からすれば夢のような世界だ。私が就職した頃でも、上級試験は別として、今のような公務員試験の熱狂ぶりは無かった。現在の公務員志向は、安定かつ高給を求めてということだろう。公務員には今や死語となった奉職という言葉があり、イメージ的には"民の為に身を挺して働く"ということだが、果たしてどうなのだろうか。

さて、兼松先生は、終戦後ロシアに抑留させられた。先生は「再び戦争になったら志願兵としてロシアに攻め入り露助を皆殺しにする」と言っていた。そこまで口にするほど抑留のダメージは大きかったのだろう。この話は、先生から私が直接聞いたのでなく、親父が先生から何度か聞いたそうだ。ロシアの話になると必ず親父がこの話を持ち出していたから、先生が言ったことは間違いない。シベリア抑留の厳しさは私が書くまでもないが、5万数千人未帰還との数値がそれを物語っている。日本兵が勤勉な奴隷として扱われていたのだ。

先生は、四角い顔の温厚な人で怒った顔や生徒をしかるところを見たことがない。そういう人が、親父との会話では「ロシア人を殺す!」などと仰っていたのだ。私の周辺では、隣に住んでいた伊藤さんと仲人をしていただいた秋友先生もロシアの抑留経験がある。伊藤さんはシベリアで森林伐採中に右手の親指を失っていた。秋友先生は将校だったのでヨーロッパ側まで送り込まれたとのこと。秋友先生は既に90歳を越えているが時間をいただいて当時の話をゆっくりとお聞きしたいと思っている。あるときドイツ人の抑留将校に告げ口されひどい目にあったことなどをお聞きしたので別途書き留めておきたい。史実によると、ロシア軍占領地のポーランド人将校は"カチンの森"で皆殺しにされた。秋友先生が生還できてよかった。

戦争は勿論だが、戦争に負けるということがその後も如何に悲惨な状況を生み出すかは、ロシア抑留や満州からの逃避行を書いた物を少々読めば良く分かる。今も各地の紛争で報道される悲惨な状況には胸が痛む。勿論戦争は絶対回避すべきだが、理不尽な侵略を黙って見逃すとさらに悲惨な結果になる。侵略者に対しては臆することなく徹底的に打ちのめすというスタンスは不可欠だ。現在我が国の国際関係は、中国やロシアの覇権主義により翻弄されつつあるが、決して侵略されることの無きよう対処すべきである。
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