雄城雅嘉部長の想いで

つい先日当時の衛星通信研究部の人たちの集まりが富士通の研修施設でありました。私の上司だった山田さんが雄城さんのことを話したのでこの話を思い出しました。
●雄城雅嘉部長の想いで 2015/08/23

1973年4月私は富士通に入社した。直ちに半年に及ぶ工場実習が始まり、交換機組立工場では大勢の女性工員に囲まれてリレーを組み立て、無線機器試験工場では高周波回路の調整をしていた。工場実習が終わると、全国の工場から帰ってきた同期入社600人は川崎工場の食堂に集められ、それぞれの配属先が通達された。連れていかれた先は、研究所(*)の衛星通信研究部で、部長が雄城雅嘉さんだった。
 *:当時も今も、研究所は本社とは分離され富士通研究所株式会社という子会社である。つまり私は、入社早々子会社出向となった。とは言えども左遷ではなく、給与も待遇も本社と全く同じだった。

配属直後は、休暇の取り方など一般的な社員心得などを教えられ、次に雄城部長からの講義が始まった。一日2時間程度で数日だったと思う。"衛星通信とは"から始まりPCM TDMAという当時の衛星通信研究部が設計していた装置に使っていた通信方式の解説だった。雄城さんが怒ったところは見たことがなく、老練な大学教授のような佇まいだった。淡々と講義を進めるのだが、たまたま私は卒論がPCMだったので内容は理解できたが、機械工学科を出た人もいたので彼は退屈だっただろう。その後のオイルショックなどで衛星通信研究部は解体され技術部となり、通信部門の縮小により衛星という部門名は姿を消した。

さて雄城さんは、富士通専務や富士通アメリカ社長などを歴任された。私はその後雄城さんとお会いすることが無かったが、ある時ひょんなことで親しく口を利いていただけることとなった。当時私は部長としてマルチメディア本部に所属しRemote Install Service(*1)という自身が起案したネットワーク経由でプログラムをインストールするサービスシステムを開発していた。その頃のことだが、隣に座っていた三輪部長(*2)から「雄城顧問がPCの調子が悪いというが調べてくれないか?」と頼まれた。「エー、雄城さんなら知ってるよ!」とのことで直ぐに13階から21階の顧問室に行った。たまたま雄城さんは不在で、雄城さんのPC(*3)を修理した!とは言えども、結局インストールからやり直したに過ぎないが!当時雄城さんは病気から復帰したばかりで頭の体操だと言いプログラム作りに励んでいた。天才のような人で、技術ともなれば何でもこなしてしまうのだ。
 *1:現在ではマイクロソフトアップデートに代表されるネットワーク経由でのインストール技術であり、私の特許がベースとなっている。私が考案したころのネットワークスピードは300BPSから1200BPSと大変遅くインストールまで自動的にやろうとは誰も考えてなかった。おかげで有力な特許となった。
 *2:富士通アメリカで雄城さんの下で働いていたとのこと。
 *3:Windows95だったが、とにかく不安定だった。ちょっと変なアプリケーションを起動するとあっと言う間にフリーズした。安定に動作させるには、決まったソフトを決まったように動かすことが求められた。MSのOSは、WindowsXPから安定したと言えよう。

その後、ちょくちょく顧問室から「コーヒーを飲みにこないか?」とお呼びがあり、殆どPCの話だったがお相手をさせてもらっていた。私は衛星通信研究部の最も出来の悪い部員だったので、雄城さんも私のことを覚えておられたのだろう。出来の悪い子供ほど可愛いなどという話もあるが、その類か?雄城さんは「まさかPCを直したのが鎌田君とは思わなかったよ!」と仰っていたが、私としては晩年の雄城さんから可愛がってもらったという楽しい思い出である。そうこうするうちに再び入院され、程なくお亡くなりになった。お通夜は大変寒い日だった。衛星通信技術部の部長付だった竹島さんも参列されおり「悲しい、こんなに悲しいことはないよ」と仰っていたことを昨日のように思い出す。
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