森本純一先生の想いで

森本先生は、実に好々爺でした。先生をされていたときも生徒から絶大な人気だったそうです。親父の描写だと「乃木大将と志賀直哉を足して割ったような、血色の良いニコニコ先生」とのこと。

追記:2014/09/12

昨夜、"我が歩みし道"を読んでいたら森本先生のことが記載されていたので転記しました。

追記:2015/08/05

安倍先輩から数年前に頂いた本です。その時読んだのですが再び読んでみました。安倍氏の先生に対する印象が的確に記述されています。

●森本純一先生の想いで 2014/09/04

文化評論(*) 1997 2月号に「いぬふぐりと老教師」との表題で親父が森本純一先生のことを書いていた。森本先生は、私の祖父よりも数歳年上で私の高校(旧制大川中学校)の第一回卒業生(明治38年卒)だった。戦後は母校の生物の先生をしていて、親父と親しくたまにわが家に遊びに来ていた。森本先生は普段着物を羽織っていたが、当時のお爺さんお婆さんは我が田舎では着物が普通だった。先生が亡くなって数年後何かの用事で親父と一緒に先生の家に行き、丁度昼時だったので奥様からカレーライスをご馳走になったことがある。例の黄色いカレーでなく、焦げ茶色の初めて味わう美味しいカレーだったので覚えているのだろう。
 *:共産党系の雑誌のようだ。親父は共産主義を信奉してなかったが、求められればどのような雑誌にも書いていたと思われる!あるとき赤旗の記者から取材があり、「なぜ詩を書くのか」と聞かれたから「権力への反抗だ」と返事したら記者が大喜びだったそうだ!少々茶目っ気が過ぎないか?

私が小学生の頃夏休みの自由研究に"あり地獄"をテーマにしたことがある。当時私が住んでいた小さい家の縁側の下にあり地獄があったからだ。私が森本先生にあり地獄を研究課題にしたいと話すと、新書本を持ってきてくれた。それを読むと小型のオケラのような形をしたあり地獄はウスバカゲロウの幼虫で、羽化する前には丸い繭に収まり最後にそれを破って飛び出すとのことで、結局その本の内容をまとめて提出した。今となって考えれば、この本に書かれてない事はないかと観察すれば良かったが、いい加減な子供だったのでもっぱら釣りや泳ぎに専念していた!

さて、親父のエッセーによると森本先生は中学を出て札幌農学校(*1)に学び、東北帝大助教授を経て京都帝大哲学科で2年学び、最後は帝室林野局技手(*2)だったが思うところがありそれを辞め故郷に帰り家業の肥料商をやっていた。しかし戦時統制で家業は廃業、心機一転宮崎で農場を始めたが海軍飛行場に接収され、応召した息子さんは戦死した。それで故郷に帰ってきたが、母校の旧制中学では戦争により先生が足りなくなり理科の先生として招かれ、70を過ぎてもPTAなどの意向で辞めさせてもらえなかったとのこと。私が入学した時には、既に引退されていた。おじいちゃんというあだ名で女生徒からも絶大な人気があったそうだ。
 *1:幼馴染の洋ちゃんは森本先生にあこがれて北大に進学した!
 *2:皇室財産の御料林の管理経営を行う。

先生の息子さんと親父は子供の頃から仲が良かったそうだ。先生は親父に戦死した息子の影を見ていたのかも知れない。親父によると、先生は京大の哲学科で若き日の西田幾多郎から講義を受けたそうだ。私とは何の相関も無い話だが、身近な人から教科書に出てくるような人のことを聞くとなんとなく嬉しくなるのはなぜだろう?今となって考えてみると、親父と仲が良かった人はすべからく戦争を嫌悪していたことに気づく。戦争が多くの人の夢や希望を壊し命までをも奪ってしまったことは悲しい。
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追記:わが歩んだ道:南原繁著より 2014/09/12

上記に南原氏が森本先生のことを述べていたので転記する。私の日記とは全く異なり、格調高く完璧に森本先生を叙述している。「…森本氏は超越・脱俗、無欲恬淡、老来ますますどこか東洋的聖者の面影があることは、彼に接したほどの人は誰でも感じるところであろう。…植物や一般に博物、引田の定時制分校では農業概論をも教えている。七十余歳であるが、壮者をも凌ぐ健脚で、よく山野を跋渉し、植物だけでなく、郷土史や考古学にも興味をもち、まことに人生汲めども尽きることを知らないとは、この人のことである。」とある。なお、森本先生の父君は我が校の初代主任書記(事務長)で、南原氏の中学進学を勧誘に来たことで面識があったそうだ。南原氏は幼少期より秀才の誉れ高く、高等小学校卒業時に教員免許を取得(*)したこともあり小学校教師になるつもりだったという。試験にさえ通れば14歳で小学校の先生になれたのだ!
 *:別の書によると、全国最年少で試験に合格したとのこと。

追記:昭和思い出の記:安倍道典著(*)より 2015/08/05

森本先生のことを「教師として母校に戻った優秀な先生も多かった。その一人、第一回卒の社会科の森本純一先生は南方熊楠のように博覧強記で、特に考古学の話がおもしろかった。大英博物館のロゼッタストーンのいわれやマラソンという言葉の語源などを興味深く話してくれた。」とある。特に"博覧強記"は先生を一語で表現している。哲学から稲作まで何でも来いで、一方私には非常にやさしい人だった。
 *:安倍氏は1932年生まれの母校の先輩で、大映テレビ株式会社の社長をされていた。同窓会で何度かお会いしたことがあり、その際に頂いた自叙伝である。
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