ロシアの入国管理局での出来事

60日間の旅行の最後の最後でこのトラブルです。まあ、KGBに逮捕され日本大使館員のお世話になったり、テレビに報道されて生き恥をさらすことにならなくてよかったと思います。北方領土返還(*)など夢物語にすぎないことを今回の経験で思い知らされました。
 *:安倍首相はリマのAPECでプーチン大統領と平和条約締結に関して協議したそうですが、終戦間際の混乱時にロシアは裏切り的行為で我が国から北方領土を奪い取りました。それを踏まえれば返そうはずがありません。今回の個人的な出来事でよく分かりました。むしろ我が国は科学技術を駆使して、現ロシアの優位性の源泉となっている原油や天然ガスを無価値化する、経済戦争を考える方がより現実的でしょう。

追記:2017/2/6

全体主義の国では、なにか不審なことを起こすと、とことん追求されてしまうことをいつも心に留め置くことが重要ですね。それでもグレムリン観光ツアーなんてあるので、皆さん楽しくやっているのでしょうか?

ロシアの入国管理局での出来事 2016/11/15

2016年11月10日に成田に着いた。実は、9日に成田空港に着く予定だったがモスクワ空港の入管に止め置かれ24時間の遅延を余儀なくされた。モスクワ空港(シェレメーチエヴォ国際空港)はアエロフロート・ロシア航空のハブ空港とのことで、エアロフロートは国営航空会社である。さて、なぜ私が24時間モスクワ空港に留め置かれたかだが、私の荷物に銃弾があったからである。この銃弾はHastingsのホテルに泊まった際にピアノバーのピアニストと仲良くなりお土産にもらったものである。勿論、既に発射済みで火薬は装填されてない。彼は軍隊生活の想い出に持っていたとのことだった。

ホテルは、Hastingsの海岸沿いのベストウェスタンだったが、ピアノバーにはグランドピアノがあって、シーズンオフだったので閑散としていた。食事の後、私はバーでワインを飲んでいたが、バーテンダーにピアノを弾いていいかと聞くと、どうぞ御自由にとのことだった。それで長かったイギリス・アイルランドを一周する旅行を思い出しながら下手な演奏を楽しんでいた。もっぱら我が青春のナツメロ、ビートルズやプレスリーである。すると私より数歳若いピアニストが現れて、連弾しようという。私は通常通り弾くが、かれは右手で高音のアドリブを弾きながら二人で楽しんだ。それで彼にワインを奢ったところ彼が軍役にあったころの記念にとってあった銃弾をお礼にとくれたのだ。勿論、私は銃弾は持って帰れないと言ったところ発射済みであり火薬は無いとのことだった。


さて、モスクワ空港だがヒースローからモスクワ(シェレメーチエヴォ)国際空港に着き、2時間の乗り換えを退屈だなと思いながらビールを飲んでいた。するとなんだか下手な英語で私の名前が呼ばれる。無視してゆっくりしていると何度も呼ばれる。それで、近くのアエロフロートのゲートの係員に私の名前が呼ばれているようだと言うと、電話で聞いてくれて、セキュリティに来いとのこと。それでセキュリティ事務所に行くと、私のトランクに銃弾の影が映るという。勿論、それはピアニストからのお土産であり火薬は無い。彼らにそれを言ったが、英語が全く通じない。私が見た範囲では例え乗継だろうが荷物をチェックしており怪しいものが見つかると、空港セキュリティ事務所に運び込まれ細密なチェックが行われているようだ。私のトランクのX線画面には鮮明な銃弾が表示されていた。そこで私の立ち合いの元に銃弾を取り出した。

私は、"No powder"と言うが、彼らは全く英語が理解できない。空港職員とは言えどもロシア人の英語のレベルは相当に低い。日本の荷物チェック係員でも、英語のレベルは高く外国人旅行者にもきちんと対応している。そこにいた男が私に英語を喋れるかと聞くが、その男が喋れる英語はそれだけだった!それで通訳の女性が来たが、中学生レベルの英語で全く単語の羅列であり、私が言う"powder"という意味を理解できないようだ。但し、態度は全く横柄で分かってもないのになんだか私の英語を他の係員にロシア語に翻訳している。とにかく"wait"とのことで長い時間を待たされた。そうこうするうちに180cm以上のがっしりした男が現れてまともな英語を喋ったので「英国の友人からお土産にもらったもので火薬は入ってない」というと、最初の男に分解しろと命令。それで男が銃弾から薬莢を外した。勿論薬莢の中には火薬は入ってない。一件落着、そのKGBらしきがっしりした男は、「銃弾を持って出国しろ」と言う。

その際別の係員はA4一枚のグジャグジャとロシア語で書かれた書類を持ってきて3か所にサインしろという。勿論拒否できると思ったが、そうすると結局日本大使館員を呼ばずに済まないだろう。仕方なくサインして無罪放免になった!今になって考えると、あの書類は彼らには何の落ち度も無いことを認めさせるものだったのだろう。内容が理解できないまま公文書にサインしたことは、長い一生で初めてだった!

アエロフロートの係員にせかされて乗り換えゲートに行くが「もう出た」とのこと。それが悪夢の始まりだった。この係員はモスクワから成田までの片道運賃400ユーロを払わないと翌日の便には乗せないと言い出した。勿論私は「私自身に何の落ち度もなく空港セキュリティのミスで乗り遅れたのだから絶対払わない」と主張。それから何度も窓口に行くが、窓口の担当が代わり、フムフムと言いながら"カエルの顔に小便"状態。勿論マネージャーを呼べと言ったが「マネージャーもダメと言っている」など、深夜に都合5回窓口でスッタモンダ。何度も声高に、事の顛末をブログに掲載しアエロフロートを糾弾すると言ったところ別のマネージャーに相談するとのこと。その後、夜中の12時近く6回目の交渉で、翌日の同便の切符が発行された。今回の交渉では、富士通で仕事をしていた頃の長々と続く海外のクライアントとの交渉を思い出した。

これに至る何度目かの交渉休憩の時間だったが、ロビーで"Bojan(*)"というドイツ人の若者と話になった。かれはロンドンで法学の博士課程に在学中とのこと。それで私の状況を話すと「それはおかしい、アエロフロートは次の便に無料で乗せるべきだ」と言った。もし彼の勇気づけがなければ、出費を余儀なくされ、今頃大々的にアエロフロート不買運動をしただろう。交渉中に東京行きの便を調べたところ翌朝10時頃発のフィンランド航空が最も早い便だったので、それまでに決着がつかなければこれで帰るつもりだった。なぜなら殺されても400ユーロをアエロフロートに献上するつもりは無かったからだ。
 *:いつものようにメールアドレスの交換、ドイツ人の名前として初めてのスペルだったので聞いてみたところ、両親はエストニアからの移民とのこと。

一件落着だったが、24時間以上肌寒いモスクワ空港のロビーのベンチで過ごすこととなった。私の海外経験は殆どが出張だったが、数十回の旅行で24時間以上ロビーで過ごしたことは初めてだった。大雪でデトロイト空港に缶詰になったこともあったが、24時間もは待たなかった。なお、モスクワ空港は絨毯敷きのところは無く、床は全て石板敷きである。つまり、ちょっと横になろうなどとは硬くて冷たくてできないようになっている!いずれにせよ私はもうアエロフロートには乗るつもりは無い。ホテル付き無料招待券でもない限り!
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追記:亀山郁夫氏の場合 20117/2/6

今日の日経夕刊「こころの玉手箱」にロシア文学者の亀山郁夫氏が1984年にロシアの詩人フレーブニコフの伝記を書くために取材旅行した際、午後2時頃ボルガ川の橋の上で写真を撮っていたら、兵士に拘束され夜まで尋問を受け、その後旅行中はずっと尾行されたそうだ。そういうことがあり「二度と土を踏まないと誓っていた旧ソ連だったが、…」とのことだったが、再び1991年に訪れ、今度は地下鉄で200ドルすられたそうだ。まったくもって踏んだり蹴ったりである。
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