内山隆君の想いで

彼の訃報を富士通退職者向けの会報で知りました。ついこの前、三島の内山宅に遊びに行こうと電話で話したのが最後でしたが、亡くなるとは思ってもみませんでした。奥さんによるとゆっくり話しする間もなく、入院して数日だったとのこと。

追記:2018/8/8

ふと思い出したので追記しました。
●内山隆君の想いで 2018/7/23

内山君と最後に飲んだのは、数年前の宇宙システム関係者の集まりだった。彼とは数えきれないほど飲んだが、若いころは酒とマージャンの日々だった。我々は1973年富士通に入社し、独身寮で初めて会った。田園都市線藤が丘駅から徒歩数分の100人程収容する富士通第三藤が丘寮だった。彼と最初に会った時のことは全く思い出せないが、彼と同室の本田君を介してかも知れない。当時独身寮は最大2年間の入寮が許され、出入りが多かった。また年長の短期出張者や中途入社者も何人もいた。私は生意気というか無頓着というか、会社の方針など考えたこともなかった。新入社員は早く出社し遅く帰るなど当然のご時世だったが、私はいつもギリギリに出社し、誰よりも早く寮に帰ってきており、残業手当は最低だった。それを当時の寮長が聞きつけ次の寮長に指名され、その際に内山君に副寮長を依頼したが快諾だった。

入寮早々我が部屋は雀荘になった。というのも同室の人(京大卒の営業マンだったが帰寮が遅く、今では名前も思い出せない)が都内にアパートを借り出て行ったが、一年間の在寮が家賃補助の条件とのことで籍を置いたままにしていた。従い、我が部屋はマージャン狂のたまり場となった。ここに集う十数人の雀狂の一人が内山君であった。

彼は日産のブルーバード510という車を持ち、寮の隣の原っぱ(勿論所有者があろうが)に車を停めていた。駅前は殆ど空き地で、通勤のため車を勝手に停めている人が大勢いた。駅前には飲食店が2店しかなく日曜日はそこで食べるしかなかった。当時の田園都市線は溝の口より西は田園都市でなく田園住宅地だった。夜間の電車はガラ空きで今日の混雑は夢物語のようである。ある日のこと内山君が私の部屋に来て「車要らないか?」という。叔父さんがクラウンをくれるので不要となったそうだ。勿論、私は大喜びで頂いた。譲渡条件は、車両はタダだが十分な任意保険に加入すること。運転が下手で注意力散漫な私はその後の事故で助けられた。

内山君は東工大の修士課程を出ていたが、入社後いつの間にか博士号を取得していた。たったの一度だが、ある日曜日彼の車で東工大の研究室に連れていかれたことがある。彼は早々に課長になり退職時は研究所の取締役だった。彼が課長の頃、私は先の見えない落ちこぼれ社員で子会社でコンピュータマニュアルなどを執筆していた。彼は私のことを考えてくれてか、彼の課で研究していた極限ロボット(原子炉内や宇宙空間などで動作するロボット)の論文をまとめる仕事を発注してくれた。数人の研究員の論文を章立てしてまとめることが仕事だが「ヨオー!」といって週に一度くらい原稿を集めに行く楽な仕事だった。研究員達は全員東大卒の博士や修士で、内容に私が手を入れるようなことは殆ど無かったからだ。さて、そろそろ私も内山君に続いてあの世に行くが、その筋書が分からないことが辛い。

追記:穴またぎ山越え 2018/8/8

内山君から車をもらった頃、運転の仕方について聞いたことを思い出した。それは「穴またぎ山越え」である。とっさの場合だが、穴があれば両輪の真ん中を通し、突起があればその上に片輪を乗せるということである。我が国では道路に大穴があることは考えられないが、万一マンホールの蓋が無くなっていたりしたらそれを真下に通過すればよい。
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