ベン・アイパの想いで

この歳になると、あの人がこの人がと先立ちます。良い想い出ばかりに満たされていると故人を偲ぶことも出来ますが、そうとばかりいかないのが人生でしょう。
●ベン・アイパの想いで 2021/01/21

今日、スマホを見ていてベン・アイパが1月15日に78歳で亡くなったことを知った。記事によるとアルツハイマーと脳溢血の合併症とのこと。彼と最初に会ったのは1970年代終わりか1980年代初めのころ日時は今や不明だ。私はお盆の休みを取って車内にガラクタ満載、屋根にサーフボードを積み川崎から四国の実家に帰省途中だった。その時、伊勢でサーフィン世界大会が開かれるというので遠回りして見物に行った。大会は南張(ナンパリ)という所で行われる予定だったが、全く波が無く多くのサーファーは国府の浜というところでサーフィンしながら波が立つのを待っていた。そこには「おばちゃん」という人が経営するバラックの一膳飯屋があった。私はその店の前に車を停め飯を食いながら海を眺めていると、そこにベンがサーフボードを抱え海から上がってきた。私の車を見るなり「どこに移住するのだ?」と聞かれた!どう答えたか忘れたが、彼なりのジョークは今でも思い出す。

その時海から上がってきた大野薫さんをベンから紹介され、その後ベンの友人の林利夫(*1)さんとも知り合ったが、林さんは最近病気が癒え、大野さんはあの世だ。林さんとは逗子のカブネ(*2)というサーフポイントに波が立つと、必ずそこで会った。カブネでは、たまたまベンが海に入ろうとしているところにバッタリ出会ったこともある。その時、一緒に沖に出るとランディ・ラディックもいて、初めて彼と話した。その日は風もなくとろい厚い波数の少ないカブネで、ハワイのベテラン二人と私がロングボードで浮かんでいる様子は今でも思い出す詩的情景であった。なお、ベンは当時の夏場毎年日本で二、三か月アイパブランドのボードをシェイプしていた。
*1:ベンが名付けたホクレアというサーフボードショップを鵠沼で経営し、1970年代初めにはベンと一緒にハワイで仕事をしていた。
*2:サーフポイントは岸壁から400m沖。ここの本領は台風のうねりのみ。従い、強いオフショアとカレントでポジションをキープするだけでも体力は必需で、初心者やポイントを熟知してないサーファーには危険。

その後、新婚旅行でハワイに行った際のこと。早速ベンに会おうと思いワイキキの彼の店に行ってみるとシェイプルームにいるという、それはアラモアナショッピングセンターの西側ワイマヌ・ストリート沿いですぐ分かった。当時アラモアナショッピングセンターの西は工場、倉庫、個人住宅などが乱立し全く開発されてなく、深夜にウロウロするのを躊躇するような場所だった。シェイプルームのスタッフによると「シーズンオフのノースショア(*)に久々に波が立ったので彼はラニアケアに行った」と言う。それでその足で家内と二人ラニアケアに向かった。
*:ノースショアは冬場が大波のシーズンで、真夏はプールのように全く波のない日も多々ある。

ラニアケアはワイキキからノースショアに入った海岸道路の木陰から最初に見えるビーチ、岸から遠いレギュラーフッターのみのポイントだ。到着すると運よくベンが海から上がってきたところで、互いに久々の再会を喜んだ。家内を紹介したり、彼の状況を聞いたりした後、私は海に入った。ベンに聞くと波高は"5 to 6 feet"というから、正面から見ると3メータから5メータくらいだ。沖に出ると大勢のサーファーがおり、初心者に毛が生えたくらいの私は一度も波にのれず結局スープに乗って岸に戻ってきた。すると驚いたことにベンがまだそこにいる。私の家内を心配し(*)、監視していたという。彼はなぜ誰にでも好かれるか、彼にはなぜ敵がいないか、これで分かるだろう。私はこの時から彼を心底好きになった。
*:今はどうだか知らないが、当時ノースショアの人目につかないところは車上荒らしなどが横行し、女性が一人で海岸をうろつくことは危険だった。
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